櫻井よしこ、劇的な半生                      

才色兼備のオピニオンリーダーとして更なる活躍を陰ながら期待している櫻井よしこ氏、若き日の悩み・苦しみ・葛藤と真摯に向き合った回想記が刊行されたが、読み応えのある好著である。
 日経ビジネスの新刊紹介欄でのインタビューで著者は『父は仕事一筋で母と子供を置き去りにして自分の夢を追い続けた人。遠い場所で別の女性と生活していた父は家に戻る事はなかったが、母は女手一つで兄と私を育ててくれ、「何があっても大丈夫」が口癖だった。ハワイから帰国してジャーナリストを目指した時、「きょうの出来事」のニュースキャスターをやらないかと声を掛けられた時、そして一人の言論人として物書きに戻ると決心した時、いつも背中を押してくれたのは母のこの言葉だった。高校を卒業した時、新事業の為ハワイに移住していた父の希望もあり、母に説得されて私は父を助ける為に渋々ハワイに旅立った。母はいつも「お父さんは本当に立派な人なのよ」と言って私達兄弟を育ててくれた。今、日本の多くの家庭で父親がないがしろにされている事をとても残念に思う。妻が夫をけなしたところで、その人を選んだ自分がつまらない人だと子供に思われるだけでしょう。子供を教育する前に親の教育が必要です』などと語っている。本書の新聞広告記事の中で、柳田邦男氏は「子が人生を拓く力は母の言葉で育まれる。若い人、必読です」と激賞している。
 櫻井氏のお父さん・清は1910年横浜生まれ、アジア各国を舞台に手広く貿易を営んでいた人。お母さん・以志は1911年小千谷生まれ、5人兄妹の長女。ベトナムで敗戦を迎えた両親は三歳の兄と生まれたてのよしこを連れて帰国、以志の故郷小千谷に帰ったが、ここを早目に切り上げて、父方の祖母の出身地大分県竹田市に移る、と同時に家族を残して清は東京へ出てしまう。高校生の兄が不良仲間に取り込まれ治らないので、再度小千谷へ移り母方の伯父伯母・祖父祖母の世話になる。以志は更に子供の教育を考え長岡市に移る、正に孟母三遷である。よしこは長岡市立東中学から長岡高校へと進むのだが、その進学に際して戸籍謄本を初めて見て、父は母と結婚する前に、一度、結婚し離婚している事を知る。以志によれば清は一回目の結婚で二人の娘を授かったという。長岡高校は実に興味深い学校だったようだ。一学年男子三百人・女子二十人、詰襟の男子生徒達は全員冬でも素足、講堂の額は「剛健質撲・和而不同」、そして偉大なる先輩山本五十六元帥の大きな写真が飾られている講堂での入学式は、生徒全員が床に正座である。式が終わって教室に入った途端、担任の先生は「今日から受験勉強を始めるように」と告げたそうだ。
 三年後、友人達が次々と思い思いの大学に合格する中で、よしこも一応名の通った私大に合格するのだが、入学金も払えずハワイに渡る。清には東京でも「青緑色の着物の女性」が居たし、ハワイには共同で日本料理店を経営する「ミセス・ロングドレス」が居たが、よしこは店を手伝いながらハワイ州立大学で英語集中講座から始める。不用意に保証人になった咎で事業に失敗した清は帰国するが、よしこは、当時5ドルしかなかったものの、歴史学部(アジア史)に進み、大勢の人々に助けられて卒業、1971年帰国する。クリスチャン・サイエンス・モニター東京支局員を皮切りに、キャスター16年、
そして1997年からの言論人としての活動は周知の通り。皆で更なる活躍を応援しましょう。