「教育勅語」誕生の経緯(1) 

國學院大學講師・高森明勅著「天皇から読みとく日本」(扶桑社2002)の一節に「意外な教育勅語誕生のドラマ」があるのを図書館の立ち読みで見つけ、大変興味深くその骨子を記す事にする。
(1) 江戸時代はそれなりに経済的・社会的成熟水準にあったのだが、幕末維新という近代社会への急激な転換期においては、外部からの文化が優位だと思いこみ、日本の歴史・習慣、その他なにもかも無くして欧米に化してしまいたい、という文化的な自信喪失と欧化拝外主義の心理に、多くの人々は捕らわれていた。「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」との趣旨で、明治5年学制が施行されたのは、我が国の教育史上画期的な事であったが、文部省布達の「小学教則」は、全体として、欧米の教育を移入する事によって日本を開明しようとの方針に貫かれていて、翻訳教科書の使用を前提としていた。「修身」を教科配列順位の最後に置き、しかも中学年以上の教科からはこれを除外してしまった。
(2) 一方当時の世の風潮の一面を表すものとして、高森氏は以下の逸話を取り上げている。「士人にして、公然娼婦を携いて市中を横行する者あり。篤行の人これをなじれば即ち曰く、自主自由の世、我れ我が銭を以って娼を買ふ、何の不可か之あらん、欧米の風、皆な自主自由なりと」。明治10年半ば頃から、社会が道徳的に混乱状態を呈しつつあったと言われ、故坂本多加雄氏は著書「明治国家の建設」で『……山路愛山は、日本人民の獣欲を抑制すべき威権の甚だ微弱であり、社会の各方面は放縦なり・乱暴なり・制裁なきなり、と回顧している』と指摘している。急激な近代社会への転換を基底要因として、当時、日本の文化的道徳的統合は厳しい試練に晒されていた。
(3) さて明治天皇は各地巡幸の途次、しばしば各種の学校を視察され授業をご覧になるのだが、ある時帰京してから岩倉具視を召し出され、「……我が邦の徳義を教育に施さん事を」とおっしゃったそうだ。また天覧に供された英学の授業では、ある生徒が流暢に英文を諳んじてみせたが、日本語に翻訳するよう仰せつけたところ、その生徒は全く訳す事ができなかった、など天皇ご自身、教育の現状に大いなる不安を覚えられたという。それ以降天皇も介在して「教育論争」が起こっている。天皇側近の元田永孚、参議・伊藤博文、内務大書記官・井上毅らが議論して、教育令・教学大旨が書かれ、明治13年の改正教育令では初めて「修身」が各教科の首位に置かれるようになった。明治15年宮内省から出された「児童教訓書・幼学綱要」には、孝行・忠節・和順・友愛・信義・勤学・立志・誠実・仁慈・礼譲……など20の徳目が掲げられそれぞれを解説した後、漢籍の言を引き、和漢の古事を紹介している。
(4) 局面はようやく動き始めたかのようだったが、ジグザグを免れず、道徳再建の目途は立たず明治23年に至った。同年2月の全国知事らの道徳再建を求める蹶起は波紋を広げ、閣議でも重要議題とされた。山県首相の回想によれば、「一部の箴言を編して、これを幼童に授け、夙夜誦読してその心に記せしむべし」との議決に達したという。井上毅が準備の枢要を担った帝国憲法皇室典範の制定は明治22年であり、その翌年同じ井上が、山県の指名により、「教育勅語」の起草に当たる事になった。起草作業そのものについて続編(2)に詳述するが、完成した「教育勅語」は金罫紙に書かれ黒塗御紋付箱に納められて、明治23年10月30日、宮中にて山県首相と芳川文相に下賜されたのであった。