「教育勅語」誕生の経緯(2)

井上毅勅語の草案執筆に際し、留意すべき以下の七点を挙げている。
1. 立憲君主制のもとにあっては、天皇と言えども「臣民の良心の自由に干渉せず」であるから、教育の方向を示される勅語については「政治上の命令と区別して社会上の君主の著作公告」と位置づけられねばならない。
2. 宗教論争の種となるような語は避ける。
3. 幽遠深微な哲学上の理論も避ける。
4. 政治家の勧告を疑わせるような、政治的な臭味を帯びた表現は使わない。
5. 漢学や洋風になずんだもの言いはしない。
6. 愚かな事や悪を非難するような消極的な教訓は控える。
7. 世上多くの宗派の中の一派を喜ばせ、他を怒らせるような言葉があってはならぬ。
 帝国憲法下の天皇は決して専制君主などではなかった。議会の「協賛」や国務大臣の「輔弼」が無くては、天皇の大権事項とされたものでも、国務上何ら法的執行力を持ち得なかった。だから、大臣副書のない勅語は正に「社会上の君主の著作公告」以上のものでは無かった。
 そこで示された勅語のメッセージとは何か。それは日本の近代社会で要請される新道徳の提示だった。いわゆる五倫 (父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り) を基本とする儒教道徳とはまるで似て非なるものになっている。「父母に孝に、朋友相信じ」は共通しているものの、他は内容が相当に違っている。勅語中の諸徳目を取り上げてみる。「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」となっているが、まず「君臣義有り」がない。これは旧時代用の徳目で、無いのは当然。「兄弟に友、夫婦相和」は五倫の「夫婦別有り、長幼序有り」とはむしろ対照的だ。「恭倹己れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習ひ、以って智能を啓発し徳器を成就し、進んで公益を広め世務を開き」などは、儒教とも封建道徳とも隔絶した正にモダンな、新時代の行動指針と言うべきか。又「常に国憲を重んじ、国法に遵ひ」に至っては、近代的な立憲法治主義のもとでこそ必要とされる実践上の規範に他ならない。しめくくりに有る「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以って天壌無窮の皇運を扶翼すべし」も、要は国家全体の利益を擁護する事の肝要さを訴えたもので、近代国家の段階において初めて現実的な課題となるものだった。更に勅語全体の結びの部分は「朕爾臣民と倶に、拳拳服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾ふ」とあり、一方的に命じるのでなく、天皇も国民と共に道徳実践に努める事が明記されている。
 要するに、封建社会から近代社会への転換に際会して、旧来の道徳が説得力を失い機能不全に陥って、社会が道徳的混乱を深めつつあった局面で、切実な危機感を背景として生み出された新時代開拓の為の道徳だった、と高森氏は言う。
[筆者感想] 明治初期の道徳的混乱の実情を憂いて、教育勅語天皇のリーダーシップで作られたとは初めて知ったが、内容は古来より日本人が守って来た事であり、また軍国主義とはほど遠い、健全な国家精神を説くもので、国民にはすんなりと受け入れられたようだ。にも拘わらず、戦後昭和23年には国会議決により排除失効されたのは真に残念な事であった。GHQの押付けで出来上がった憲法は、独立達成直後に、自民党創立時の綱領にあるように、改正されるべきであったし、一方、無効化された教育勅語は、独立後再有効化されるべきであったと筆者は考える。