国の衰退と没落――その1

京都大学名誉教授(教育学研究)・竹内洋氏の大著「革新幻想の戦後史」(中央公論新社2011)の最終頁が『繁栄の極みにあった国が衰退し没落する例は歴史に満ち満ちている。その原因は各種各様だが、ローマについては、パンとサーカスという大衆社会の病理により、漸次的水準低下が始まり、天才の焔は消え、軍事精神が消滅する事で滅んだと言われている。その再現がいま極東の涯のこの地で起こりかけていまいか。パンとサーカスならぬ「幻想としての大衆」に引きずられ劣化する大衆社会によって……』で終わっており、日本は戦後どこで間違えたかを模索中の筆者は大いに興味をそそられた。終章「革新幻想の帰趨」を中心に以下のように要約してみた。
1. 戦後の若者に関する特徴は、長期にわたって就学するという教育爆発と、農村から都会への地理的移動と第一次産業から第二・三次産業への社会的移動だったし、男はもとより女生徒でも向都離村を目指した。石坂洋次郎の小説「青い山脈・陽のあたる坂道」などは、あるべき近代的生活様式へのテキストだったし、伝統的な生活様式や思考様式を否定する「大衆近代主義」への案内書だった。モダニズムは職業構造・産業構造の大変化で生まれた大衆の憧れの対象だった。
2. 戦後日本の左翼政党支持者は、労働者一般ではなく、ホワイトカラー・大企業労働者など恵まれた労働者だった。自民党補助金道路建設などを、社会党は組合員の利害を争点にしていたが、ビッグな争点は非経済的問題――自衛隊講和条約・安全保障・教育法案・警職法改正案など――だった。社会党の支持者は、マルクス主義イデオロギーから自民党を非難するというよりも、天皇制を中核とした封建的絶対勢力を覆すブルジョア民主主義革命が先決だった。農村青年の「社会党を支持するという方が何だかスマートでハイカラのような気がする」などの発言こそ、草の根革新幻想の在りかを示している。このような反伝統主義的生活感覚が、封建制退治の社会党と親和性があり、モダニズム社会主義は結びついて行ったのだ。
3. ところで、大衆モダニズムは1960年代半ばにはもはや牽引思想でなくなったが、伝統主義を駆逐して70年代には身体文化として定着してしまった。「国が栄える為には個人の自由がある程度犠牲になってもやむなしか」という質問に対し、1956年では「そう思う」が52%有ったが、1975年には28%に激減し、大衆モダニズムと結合した革新幻想の定着は、70年代からの市民運動の盛り上がりなどに見られるものの、そうした運動の堕落した形態―住民エゴ―も現れるに至る。一部の市民運動では、役所に押しかけ器物破壊などを公然と行う事まで見られる。クレーマー(claim)社会とかお客様社会の凄まじさは、近年の交通機関の駅員や車掌への客による罵詈雑言や暴力にも見る事ができる。「人間は皆平等なのだから個人は自由に欲望を表出する事が許される」と言う「風潮としての民主主義」がこれらの堕落を後押ししている。このような「風潮としての民主主義」こそ、大衆モダニズムと手を結んだ革新幻想の末路と言える。
4. 民主主義と教育の大衆化の帰結が大衆エゴイズムだったかと思うと、「歴史の狡知」に唖然とする。しかし、今振り返れば、このような大衆人は、革新知識人が自らの覇権の援軍として、啓蒙し創出しようとした大衆の鬼子(大衆エゴイズム)でもあった。今の指導者がポピュリズム狙いのパフォーマンスに走るのも、指導者の資質の問題というより、層としての中間エリートを欠き、劣化した大衆社会圧力によるのではないか。・・・(と著者は言い、冒頭の結論を導いている。)
5. [筆者の感想] いわゆる進歩的文化人が戦後跳梁跋扈し、政官学の各界に左翼がはびこり、それに引きずられた大衆が鬼子になってしまったとすれば、戦後左翼の罪は万死に値する。

「国歌斉唱時起立」に関する最高裁判決

昨年5月30日、最高裁第2小法廷は、入学時等における国歌斉唱時に教職員に対して起立を命ずる職務命令は憲法に違反せず適法である、とする判決を下した。この訴訟は、都立高校の卒業式における国歌斉唱時に起立せず、東京都教育委員会から戒告処分を受けた元教諭が、処分を理由とした再雇用の拒否は違法であるとして提訴したものである。一審判決は、一度きりの不起立で不採用とするのは裁量権の濫用に当たるとし、元教諭の訴えを容れ、200万円を超える損害賠償を命じたが、これに対し控訴審では、起立を命じる職務命令を適法とした上で、その遵守を拒否した元教諭の行動の義務違反を肯定し、逆転敗訴の判決を下していた。今回の最高裁判決は、国歌斉唱時に起立する事は「慣例上の儀礼的所作」であるとし、起立を強制したとしても、個人の歴史観や世界観を否定するものではなく、又特定の思想の強制や禁止、告白の強要とも言えないとし、思想・良心を直ちに制約するとは認められないと判示した。これは「起立」を命じた職務命令について最高裁が行った初めての合憲判断だった。6月6日には、同じく都立高校元教諭らが起こした同様の提訴について、最高裁第1小法廷は元教諭らの上告を棄却、「起立」に関する合憲判断を行った。更に6月14日には、都内市立中学の教員・元教員の同様の訴えに対し、最高裁第3小法廷は同じく合憲の判断を行った。これで最高裁の全小法廷が合憲で一致したわけである。最後の第3小法廷の結果の内訳は、5人のうち4人が一致した多数意見であり、弁護士出身の裁判官が反対意見を述べた。因みに三つの小法廷を合算すると14人の裁判官のうち12人が合憲、2人(いずれも弁護士出身)が反対意見を述べたようだ。卒業式で君が代を斉唱するに際し起立を命ずるのは、教諭らの思想・信条にかかる内心の核心的部分を侵害するとは言えず、これに反した行動に対してなされた戒告処分も合法であると確定した。
その後も6月21日から7月14日迄同様の5件に対し、最高裁はいずれも被告の上告を棄却し、教職員らの全面敗訴となったが、職務命令違反による処分の基準に関して、今年1月16日新たな最高裁判決があった。入学式や卒業式で国旗に向かって起立して国歌を斉唱しなかった為、懲戒処分を受けた小学校及び都立高校の教諭らが処分(戒告・減給・停職)取り消しを求めた3件の訴訟だが、平成21年一審の東京地裁が、処分は全て合法としたのに対し、平成23年二審の東京高裁は殆どを違法と断じていた。先日の最高裁(第一小法廷・金築裁判長)判決は「職務命令違反に対し、学校の規律や秩序保持の見地から重すぎない範囲で懲戒処分をする事は裁量権の範囲内」との初判断を示し、更に一度の不起立行為であっても戒告処分は妥当とした。一方、不起立を繰り返して処分が重くなる点は「給与など直接の不利益が及ぶ減給や停職には、過去の処分歴や態度から慎重な考慮が必要」と判断、停職となった教職員2人の内1人の処分は重過ぎるとして取り消した。最高裁は、曖昧だった処分の基準を今回初めて明確にしたわけである。
それにしても、国旗に向かって起立して国歌を斉唱するなど、極々当たり前な事が、命令しなくては出来ないとか、不起立に対する厳しい処分は控えるなど、我が国は何とおかしげな国である事か。米国の幼稚園・小学校では必ず毎日、胸に手を当てて以下のように唱和すると言う。『 I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which it stands ……』(私はアメリカ合衆国の旗、及びそれが代表するところの共和国に忠誠を誓います。……)。ますますグローバル化する国際社会の中での競争に勝たなければならないのに、これでは日本人は始めから負けではないか。学校の先生方よ、よーく考えてもらいたい。

「教育勅語」誕生の経緯(2)

井上毅勅語の草案執筆に際し、留意すべき以下の七点を挙げている。
1. 立憲君主制のもとにあっては、天皇と言えども「臣民の良心の自由に干渉せず」であるから、教育の方向を示される勅語については「政治上の命令と区別して社会上の君主の著作公告」と位置づけられねばならない。
2. 宗教論争の種となるような語は避ける。
3. 幽遠深微な哲学上の理論も避ける。
4. 政治家の勧告を疑わせるような、政治的な臭味を帯びた表現は使わない。
5. 漢学や洋風になずんだもの言いはしない。
6. 愚かな事や悪を非難するような消極的な教訓は控える。
7. 世上多くの宗派の中の一派を喜ばせ、他を怒らせるような言葉があってはならぬ。
 帝国憲法下の天皇は決して専制君主などではなかった。議会の「協賛」や国務大臣の「輔弼」が無くては、天皇の大権事項とされたものでも、国務上何ら法的執行力を持ち得なかった。だから、大臣副書のない勅語は正に「社会上の君主の著作公告」以上のものでは無かった。
 そこで示された勅語のメッセージとは何か。それは日本の近代社会で要請される新道徳の提示だった。いわゆる五倫 (父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り) を基本とする儒教道徳とはまるで似て非なるものになっている。「父母に孝に、朋友相信じ」は共通しているものの、他は内容が相当に違っている。勅語中の諸徳目を取り上げてみる。「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」となっているが、まず「君臣義有り」がない。これは旧時代用の徳目で、無いのは当然。「兄弟に友、夫婦相和」は五倫の「夫婦別有り、長幼序有り」とはむしろ対照的だ。「恭倹己れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習ひ、以って智能を啓発し徳器を成就し、進んで公益を広め世務を開き」などは、儒教とも封建道徳とも隔絶した正にモダンな、新時代の行動指針と言うべきか。又「常に国憲を重んじ、国法に遵ひ」に至っては、近代的な立憲法治主義のもとでこそ必要とされる実践上の規範に他ならない。しめくくりに有る「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以って天壌無窮の皇運を扶翼すべし」も、要は国家全体の利益を擁護する事の肝要さを訴えたもので、近代国家の段階において初めて現実的な課題となるものだった。更に勅語全体の結びの部分は「朕爾臣民と倶に、拳拳服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾ふ」とあり、一方的に命じるのでなく、天皇も国民と共に道徳実践に努める事が明記されている。
 要するに、封建社会から近代社会への転換に際会して、旧来の道徳が説得力を失い機能不全に陥って、社会が道徳的混乱を深めつつあった局面で、切実な危機感を背景として生み出された新時代開拓の為の道徳だった、と高森氏は言う。
[筆者感想] 明治初期の道徳的混乱の実情を憂いて、教育勅語天皇のリーダーシップで作られたとは初めて知ったが、内容は古来より日本人が守って来た事であり、また軍国主義とはほど遠い、健全な国家精神を説くもので、国民にはすんなりと受け入れられたようだ。にも拘わらず、戦後昭和23年には国会議決により排除失効されたのは真に残念な事であった。GHQの押付けで出来上がった憲法は、独立達成直後に、自民党創立時の綱領にあるように、改正されるべきであったし、一方、無効化された教育勅語は、独立後再有効化されるべきであったと筆者は考える。

「教育勅語」誕生の経緯(1) 

國學院大學講師・高森明勅著「天皇から読みとく日本」(扶桑社2002)の一節に「意外な教育勅語誕生のドラマ」があるのを図書館の立ち読みで見つけ、大変興味深くその骨子を記す事にする。
(1) 江戸時代はそれなりに経済的・社会的成熟水準にあったのだが、幕末維新という近代社会への急激な転換期においては、外部からの文化が優位だと思いこみ、日本の歴史・習慣、その他なにもかも無くして欧米に化してしまいたい、という文化的な自信喪失と欧化拝外主義の心理に、多くの人々は捕らわれていた。「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」との趣旨で、明治5年学制が施行されたのは、我が国の教育史上画期的な事であったが、文部省布達の「小学教則」は、全体として、欧米の教育を移入する事によって日本を開明しようとの方針に貫かれていて、翻訳教科書の使用を前提としていた。「修身」を教科配列順位の最後に置き、しかも中学年以上の教科からはこれを除外してしまった。
(2) 一方当時の世の風潮の一面を表すものとして、高森氏は以下の逸話を取り上げている。「士人にして、公然娼婦を携いて市中を横行する者あり。篤行の人これをなじれば即ち曰く、自主自由の世、我れ我が銭を以って娼を買ふ、何の不可か之あらん、欧米の風、皆な自主自由なりと」。明治10年半ば頃から、社会が道徳的に混乱状態を呈しつつあったと言われ、故坂本多加雄氏は著書「明治国家の建設」で『……山路愛山は、日本人民の獣欲を抑制すべき威権の甚だ微弱であり、社会の各方面は放縦なり・乱暴なり・制裁なきなり、と回顧している』と指摘している。急激な近代社会への転換を基底要因として、当時、日本の文化的道徳的統合は厳しい試練に晒されていた。
(3) さて明治天皇は各地巡幸の途次、しばしば各種の学校を視察され授業をご覧になるのだが、ある時帰京してから岩倉具視を召し出され、「……我が邦の徳義を教育に施さん事を」とおっしゃったそうだ。また天覧に供された英学の授業では、ある生徒が流暢に英文を諳んじてみせたが、日本語に翻訳するよう仰せつけたところ、その生徒は全く訳す事ができなかった、など天皇ご自身、教育の現状に大いなる不安を覚えられたという。それ以降天皇も介在して「教育論争」が起こっている。天皇側近の元田永孚、参議・伊藤博文、内務大書記官・井上毅らが議論して、教育令・教学大旨が書かれ、明治13年の改正教育令では初めて「修身」が各教科の首位に置かれるようになった。明治15年宮内省から出された「児童教訓書・幼学綱要」には、孝行・忠節・和順・友愛・信義・勤学・立志・誠実・仁慈・礼譲……など20の徳目が掲げられそれぞれを解説した後、漢籍の言を引き、和漢の古事を紹介している。
(4) 局面はようやく動き始めたかのようだったが、ジグザグを免れず、道徳再建の目途は立たず明治23年に至った。同年2月の全国知事らの道徳再建を求める蹶起は波紋を広げ、閣議でも重要議題とされた。山県首相の回想によれば、「一部の箴言を編して、これを幼童に授け、夙夜誦読してその心に記せしむべし」との議決に達したという。井上毅が準備の枢要を担った帝国憲法皇室典範の制定は明治22年であり、その翌年同じ井上が、山県の指名により、「教育勅語」の起草に当たる事になった。起草作業そのものについて続編(2)に詳述するが、完成した「教育勅語」は金罫紙に書かれ黒塗御紋付箱に納められて、明治23年10月30日、宮中にて山県首相と芳川文相に下賜されたのであった。

北方四島返還―無策の10年を脱却出来るか 

今年6月から7月にかけて、筆者は東郷和彦元外務省欧亜局長の著書「北方領土交渉秘録」を参考に、短文「北方四島その1 、2、3」を書いた。その1では、1956年の日ソ共同宣言以降のねばり強い交渉経緯を経て、2001年にイルクーツクで森・プーチン会談が行われ、それは「島が一番近づいた日」だった事を、その2ではしかし、森総理の退任と小泉政権発足に伴って、田中真紀子外務大臣就任など、日本側の諸々の不手際もあり、一気に日露交渉は壊滅してしまい、その後日本は無策の10年間を過ごしてしまった事を記した。最後のその3では、交渉実務を担当し「不眠不休で仕事をしその献身ぶりは余人の及ぶところでなかった(東郷氏談)」佐藤優氏の著書「国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて」を読んでの、筆者の感想『四島一括返還が幅を利かせた中にあって、それでは決して露がテーブルに着かない現実を打開すべく「二島先行返還、二島並行協議」を提案し、露側も拒否ではなかったものの、上述の如くでそれに移行し得なかったのは真に残念。今後とも挙国一致で本件に立ち向かわなくてはならない』を書いた。
 さて我が国では3.11以降、総理まで大震災対応で慌てふためいてしまい、外交どころではなかったが、4月下旬の産経新聞によると露は震災支援に乗じて中長期的な資源開発事業を持ちかけるなど、急速な対日接近を見せているようだ。また7月の同紙によると、露が日本に呼び掛けている北方領土での「共同経済活動」をめぐり、日露が北方四島周辺海域での「安全操業協定」や四島との「ビザなし渡航協定」を応用する方向で協議に入るようだ。いずれにしても、露は依然として経済に問題を抱えており、外国の力を借りたいが、地政学的にも軍事的にも中国は脅威であり、その点の問題が少なくかつ科学技術的にも魅力の多い日本に頼りたい気持ちが強い。
 そういう中で、2012年3月の大統領選の候補に、メドベージェフ大統領はプーチン首相を推薦すると述べた。プーチン氏と、代わりに首相の座につくメド氏の双頭体制が事実上、決定した。本件に関し露の政治状況に精通している佐藤優氏は新聞紙上で以下のようにコメントしている。『要するにメド氏とプーチン氏の間で深刻な権力闘争が展開されていたのだが、メド氏はその闘いに敗れたのだ。プーチン氏は中国をアジア最大の脅威と見なし、それに対抗する為日本との関係を重視していた。しかし、メド氏は対日関係悪化を招き、日本と言うカードを使えない状況を生み出してしまっていた。またメド氏は露のナショナリズムを煽る為北方領土を訪問し、領土交渉は完全にゼロの状態に陥った。プーチン氏は(平和条約締結後の歯舞・色丹両島の日本への引き渡しを定めた)「56年宣言」を露にとって「義務的なもの」と認識しており、この点でも2人の戦略は大きく異なる。プーチン親日家だと言うわけではない。中国に対抗する為に日本が大事だという乾いた力の外交の考えを持っているという事だ。いずれ、北方領土問題が動き始めるだろう。交渉は大変で露が四島をすぐ返すという事は考えられないが、日本人の感情を逆なでするやり方はしないだろう。プーチンはタフネゴシエーターだ。それに向き合うだけの外交的な基礎体力が日本側にあるだろうか』 氏はその点を大いに懸念している。
 自民党時代の橋本・森総理らの政治のリーダーシップ、これを支える、外務省の異能・佐藤優氏を始めとする有能なスタッフ陣があって初めてタフなプーチン政権に対応し得たわけだが、それとの対比では小泉以降の自民党各総理も、ましてや鳩山・菅も太刀打ち出来ず、現野田政権の素人閣僚ではとても無理だろう。国益を損しない為に、相手はプーチンなのだから、10年前の陣容(森・東郷・鈴木・佐藤各氏ら)を顧問団に迎えて強力な布陣で取り組んでもらいたいものだ。

吉田茂の影の参謀・辰巳元中将

湯浅博著の新刊「吉田茂の軍事顧問・辰巳栄一」(産経新聞出版2011.7)の、私にとってのエッセンスを記す事にする。氏の略歴は「大正4年陸士卒業、同14年陸軍大学校卒業、昭和8年関東軍参謀、同11年英国大使館付武官、同17年東部軍参謀長、同20年第3師団長(南寧)、同21年5月復員、同21年6月首相軍事顧問(同29年12月迄)、同63年死去」、陸軍きっての国際派だ。
1. 辰巳中佐は昭和11年9月駐英武官として赴任し、日独防共協定の趣旨を説明し吉田茂大使の同意を得るべく説得にかかった。しかし大使は「一度この協定を結ぶと将来軍事的なものに進む。ヒトラーがもし英米を相手に戦を起こせば、日本は英米を相手にせねばならぬ。日本はそれに勝ち目はあるのか。どちらかにつくなら自分は英米側を選ぶ」と断固とした口調で言い切った。英米の底力を身にしみて知っていた辰巳は「微力、説得するを得ず」と打電した。駐独武官・大島浩による説得も不発に終わり、大使不同意のまま協定は結ばれてしまった。
2. 華中に駐屯していた第3師団を率いていた辰巳中将は、徹底抗戦を叫ぶ不穏な動きの中、各部隊を巡り「終戦詔勅」を自ら奉読し説得・鎮撫に努めた。翌昭和21年5月第三師団最後の部隊と共に、辰巳は復員船で博多に着き、家族が待つ疎開先の出雲の大社町に帰った。敗戦は「国力の判断を誤った一部主戦論者に引きずられた結果であり、情報を的確に判断する指導者を欠いていた事による」と辰巳は考えており、残るのは言い知れぬ無力感であった。ある日散歩から帰った辰巳に電報が待っていた。元駐英日本大使で、辰巳復員の直前に総理大臣に就任していた吉田茂の意を体した、復員局長からの言わば「出頭命令」だった。
3. 首相から「交渉相手はマッカーサー以下殆ど皆軍人だ。君の援助がほしい」と言われ、辰巳は秘密軍事顧問になった。その頃GHQから憲法草案を受け取って激しい論議がおこり、辰巳もそのいかがわしさについて吉田に論議をもちかけたが、吉田の考えは、その不完全さを日米安保条約で補う事とし経済復興を優先する事だった。昭和25年6月には朝鮮戦争が勃発し、マッカーサーは吉田に7.5万人の警察予備隊の創設を命じた。辰巳は、これは将来の軍になるものと考えていたが、吉田は世論の動向を気にかけこれを治安部隊だとして譲らなかった。一方辰巳らは「治安のみでは足りぬ、対外防衛を考えねばならぬ」と強く主張し、最終的には吉田も、再軍備を求めて来日したダレスとの会談で、米国の支援で新しい軍を作り上げる決意を語って了解された。しかし交渉内容は秘密扱いにする事を依頼し、ダレスも了承した。
4. 吉田は首相在任中に再軍備憲法改正もしないという方針を変えなかったが、しかし彼を、世評に言う軽武装・経済中心主義とだけ解釈するのは正しくない。引退後隠棲していた大磯邸の吉田を、老将軍・辰巳は足しげく訪ねたが、昭和39年のある日吉田は「国防問題には深く反省している。今のように国力充実して独立大国になったからには、軍備を持つ事は必要だ」と頭を下げた。辰巳は、講和会議か自衛隊発足の時点で、憲法改正に踏み切っていたらとずっと思い続けていた。昭和32年発足の岸内閣は憲法改正を目指したが、自民党主流派から「憲法は定着している」と反対され、日米安保の改定に絞らざるを得なかった。池田首相は所得倍増を掲げ、佐藤首相も復興期の安易な吉田路線を継承してしまった。
[筆者の感想] 昭和30年の自民党結党時の政治綱領にある「独立体制の整備(憲法改正自衛軍備の整備)」は、何と半世紀以上先送りされているわけだ。戦前もそうだったようだが、現在も、苦難だが国家として進むべき道に国民をリードする指導者に、この国は恵まれていない。

マスメディアの不当報道告発

H20年2月19日午前4時過ぎ、房総半島南方・三宅島北方の海域で自衛艦「あたご」と漁船「清徳丸」が衝突し、漁船は沈没、同船の乗組員(船主と長男)が死亡(5月20日認定)した事故に関し、翌年4月に横浜地方検察庁は、事故当時の当直責任者2名を横浜地方裁判所に起訴したが、H23年5月11日裁判所(秋山敬裁判長)は「回避義務は清徳丸側にあり・・・」として無罪判決を下した。地検は東京高等裁判所に控訴し、現在控訴審中である。
  「あたご」の排水トン数は7,750でエンジンは73,550KW、「清徳丸」は約15トンで435KW、排水トン当りのKWは、「あたご」9.5KW、「清徳丸」29.0KWである。すなわち漁船の方がずっと 小回りが利くし、「殆どの大型船はそのまま真っすぐ向かって来るので、自分らは先に回避する」というのが、漁師仲間の常識だと言われている。そんな事は専門家でなくても一般常識の範囲と筆者も思い、「大型船は、必要なら警報を鳴らしつつ、一定速度で直進(夜間なら直進ライト使用)する」のが事故防止の基本ではないかと、本件が話題になる度に筆者は言ってきた。ところが当時のマスメディアの論調は全く反対で、事故発生当初から「あたご側に全ての過失がある」と断定する報道を繰り返していた。朝日新聞海難審判前のH20.6.26の社説で「そもそも双方の位置関係から、衝突回避の一義的な義務はイージス艦側にあった」と断定したし、地裁判決後のH23.5.12に信濃毎日新聞は社説で、イージス艦が漁船より巨大である事を理由に「危険回避の責任はまず、海上自衛隊にあると考えるのが自然だろう」と主張した。その他怒涛のような、感覚的・感情的な報道や、数値・根拠に基づかない報道が殆どで、それに押されるように、刑事裁判前の海難審判ではH21.1.22、事故主因をあたご側とする裁決が下された。これは先述の視点からすれば大変驚くべき判断であり、何かがおかしいと感じていたのだが、さすがに刑事裁判では独自に航跡を認定したのだった。それによると、漁船はあたごの右側から接近、衝突約3分前まで、直進すればあたごの後方を500m以上離れて通過する針路を取っていた。ところが、その頃から漁船は何らかの理由で2度にわたって右旋回、あたごと衝突の危険が生まれた。あたごは後進し、汽笛を鳴らし信号探照灯で漁船を照らしたが、漁船は回避動作をとらず、あたごもすぐに停船出来ぬまま衝突――。検察官の主張した航跡は、海難審判で認定された航路に近かったのだが、刑事裁判ではその航跡は「航路特定の為、恣意的に僚船船長らの証言を用いていると言わざるを得ない」として却下されたのだった。
 さて、筆者としては、常識的に納得のいく判断が導かれた事を高く評価し敬意を表したいが、何とも腹立たしいのがマスメディアである。あれほど「あたご」を非難した朝日新聞は一言の釈明もしないどころか、判決後の社説で「無罪は事故の免罪符ではない」とし、検察官の失点をあげつらっている。ミスリードされた国民もこの経緯を思い起こし、報道記事に対する監視の眼を厳しく持たなくては悪質メディアを駆逐出来ない。