吉田茂の影の参謀・辰巳元中将

湯浅博著の新刊「吉田茂の軍事顧問・辰巳栄一」(産経新聞出版2011.7)の、私にとってのエッセンスを記す事にする。氏の略歴は「大正4年陸士卒業、同14年陸軍大学校卒業、昭和8年関東軍参謀、同11年英国大使館付武官、同17年東部軍参謀長、同20年第3師団長(南寧)、同21年5月復員、同21年6月首相軍事顧問(同29年12月迄)、同63年死去」、陸軍きっての国際派だ。
1. 辰巳中佐は昭和11年9月駐英武官として赴任し、日独防共協定の趣旨を説明し吉田茂大使の同意を得るべく説得にかかった。しかし大使は「一度この協定を結ぶと将来軍事的なものに進む。ヒトラーがもし英米を相手に戦を起こせば、日本は英米を相手にせねばならぬ。日本はそれに勝ち目はあるのか。どちらかにつくなら自分は英米側を選ぶ」と断固とした口調で言い切った。英米の底力を身にしみて知っていた辰巳は「微力、説得するを得ず」と打電した。駐独武官・大島浩による説得も不発に終わり、大使不同意のまま協定は結ばれてしまった。
2. 華中に駐屯していた第3師団を率いていた辰巳中将は、徹底抗戦を叫ぶ不穏な動きの中、各部隊を巡り「終戦詔勅」を自ら奉読し説得・鎮撫に努めた。翌昭和21年5月第三師団最後の部隊と共に、辰巳は復員船で博多に着き、家族が待つ疎開先の出雲の大社町に帰った。敗戦は「国力の判断を誤った一部主戦論者に引きずられた結果であり、情報を的確に判断する指導者を欠いていた事による」と辰巳は考えており、残るのは言い知れぬ無力感であった。ある日散歩から帰った辰巳に電報が待っていた。元駐英日本大使で、辰巳復員の直前に総理大臣に就任していた吉田茂の意を体した、復員局長からの言わば「出頭命令」だった。
3. 首相から「交渉相手はマッカーサー以下殆ど皆軍人だ。君の援助がほしい」と言われ、辰巳は秘密軍事顧問になった。その頃GHQから憲法草案を受け取って激しい論議がおこり、辰巳もそのいかがわしさについて吉田に論議をもちかけたが、吉田の考えは、その不完全さを日米安保条約で補う事とし経済復興を優先する事だった。昭和25年6月には朝鮮戦争が勃発し、マッカーサーは吉田に7.5万人の警察予備隊の創設を命じた。辰巳は、これは将来の軍になるものと考えていたが、吉田は世論の動向を気にかけこれを治安部隊だとして譲らなかった。一方辰巳らは「治安のみでは足りぬ、対外防衛を考えねばならぬ」と強く主張し、最終的には吉田も、再軍備を求めて来日したダレスとの会談で、米国の支援で新しい軍を作り上げる決意を語って了解された。しかし交渉内容は秘密扱いにする事を依頼し、ダレスも了承した。
4. 吉田は首相在任中に再軍備憲法改正もしないという方針を変えなかったが、しかし彼を、世評に言う軽武装・経済中心主義とだけ解釈するのは正しくない。引退後隠棲していた大磯邸の吉田を、老将軍・辰巳は足しげく訪ねたが、昭和39年のある日吉田は「国防問題には深く反省している。今のように国力充実して独立大国になったからには、軍備を持つ事は必要だ」と頭を下げた。辰巳は、講和会議か自衛隊発足の時点で、憲法改正に踏み切っていたらとずっと思い続けていた。昭和32年発足の岸内閣は憲法改正を目指したが、自民党主流派から「憲法は定着している」と反対され、日米安保の改定に絞らざるを得なかった。池田首相は所得倍増を掲げ、佐藤首相も復興期の安易な吉田路線を継承してしまった。
[筆者の感想] 昭和30年の自民党結党時の政治綱領にある「独立体制の整備(憲法改正自衛軍備の整備)」は、何と半世紀以上先送りされているわけだ。戦前もそうだったようだが、現在も、苦難だが国家として進むべき道に国民をリードする指導者に、この国は恵まれていない。