軽い言葉の政策でなく人物を見よう

菅直人についての人物評価をまとめる。月刊「文藝春秋」(H22.10)の憂国対談で、ノンフィクション作家・保阪正康とジャーナリスト・徳岡孝夫とが、菅直人の人物評を以下のように行っている。
1. 腹の立つ事が三つある。(1)彼の視線というものは、ものを凝視し、きちっと直視してものを考える目じゃない。小悪人が人の反応を窺うような小賢しい目をしている。(2)言ったことを平気で変える。言葉が軽い。これは菅の政治家としての出自も関わっている。(3)じっくり考えて世界観を作り上げるタイプでなく、眼前の物事にどう対処するかに長けた人物であって、哲学とか思想は語れない。イデオロギーや政治的信念はどうでもよく、政界遊泳術のみ。
2. 菅という人は核心的な物事については、自分の意見をはっきり言わない。今回の中国漁船衝突事件でも、首相としての大局観をまったく語らなかった。船長釈放は検察の判断だったとごまかす。都合が悪くなると他人に責任を押し付けるのも、悪質な市民運動家そのもの。
3. 今回の代表選でも菅は「皆さん、どうですか」という言い回しでよく聴衆に呼び掛けていた。学級会ではあるまいし、指導者が口にすべき言葉ではない。極めて巧妙な責任逃れなのです。
菅内閣が2010.6.8に発足してから、参院選の大敗、日韓併合謝罪談話発出、尖閣事件処理失敗、などなどを経て、一年が経ち与野党から退陣を迫られている今日、産経新聞に元盟友の田上氏が「菅首相の実像」を以下のように語っている。『市川房江の選挙を手伝った頃、四つ年上で頼もしく見えましたが、当時から国家観や哲学なんてものは無かった。社会市民連合の代表となった頃、口の利き方にはほとほとあきれていた。日頃手足となり応援してくれる年上の市会議員が事務所に来ても敬意を払おうとしない。だから話はちっとも和まない。昔からよく怒鳴っていた。そのくせ都合が悪くなると「田上く〜ん」とすり寄って来る。結果が出ないと責任をすぐに「あいつが悪い」と人のせいにする性格が嫌になり、次第に距離を置くようになった』
同じく産経新聞H23.7.18紙上で、京大教授・佐伯啓思氏は「菅現象をめぐる困惑」で以下のような感想を述べ、「民主政治の土台は国民の[人を見る目]にある」と結論づけている。『自党の幹事長・官房長官などを含めた側近からも事実上の退陣を迫られている人物は、かつてなかった。いったい何が起こっているのか。推測出来るのは簡単で、問題は政策論でなく人物論なのだ。政策以前に、菅首相という人物には殆ど人格上の問題がある、という事だ。政権を支える筈の側近までがこぞって菅降ろしに走るのは、この人が首相として不適格だからだと解釈するほかない。さてこれは何を意味するのか。これはただ菅氏という特定の政治家の問題ではない。もしも、菅氏がもっぱら権力に関心を持つ首相不適格者(その点で人格的な問題を持つ人物)だとすれば、そんな事は以前から民主党員には分かっていた事ではないのか。一度は菅氏を支持した民主党員が、今更「首相に相応しくない」などと言える柄ではあるまい。もっと言えばこれは「政治」というものの理解に関わる。民主党は、ことさら政治論議・政策選択と言って来たが、しかし、実は、民主政治にあっては国民が見るべきなのは「人物」なのだと言う事である。小沢・鳩山・菅の民主党をあれほど支持した人々は、今更期待外れだったと簡単に言えるものではあるまい。政策は言葉で語られる。しかし、今日の政治舞台では言葉はあまりに軽々しく便宜的でかつ耳当たりよく使われる。すると問題は言葉を使う人物へと戻って来るのであり、我々の人物を見る目に帰着するのだ』と述べ、先述の結論のように締めくくっている。
筆者もこんな人物を代表に選んだ民主党議員一人ひとりの責任は極めて大きいと慨嘆している。

ソ連の崩壊と日米同盟の勝利(古森2) 

古森義久の著書「アメリカはなぜ日本を助けるのか」の第9章の要旨で(古森1)に続いています。
1) ソ連の核ミサイルSS20 1980年代前半の核問題というのは、ソ連が1977年から西欧各国や日本を射程に収めて配備を始めた、凄い威力の戦域核ミサイルSS20の事であり、5年後に300基を越えていた。米欧側はその撤去や削減を求めたがソ連は応ぜず、米欧側としてはパーシング?型核ミサイルと巡航核ミサイルを、西独他5ヶ国に配備せざるを得なかった。この時、西欧諸国、特に西独ではこの配備に対する反対運動が盛んになり、日本でもこれに呼応して反核運動が広がった。西側の配備反対のみを叫ぶ理不尽な運動だった。ソ連の心臓部には届かない設計なのに、朝日新聞は「モスクワを6分で攻撃できる」などとソ連の宣伝情報をそのまま繰り返し報道した。1983年11月西独連邦議会はミサイル配備を可決したが、配備開始と共に反核運動はばたりと止んだ。
2) 関・森嶋防衛論争 1979年に日本の論壇の注目を集めたこの論争の発端は、関嘉彦氏の「日本の安全保障政策」についての一文であり、ロンドン大学の森嶋教授が反論を寄せて始まった。関氏は「日本は日米同盟を堅持しながら、ソ連の武力侵攻に対抗する為に、独自の防衛態勢を強めるべき」と主張するのに対し、森嶋氏は「ソ連が侵略して来たら降伏すればよい」という非武装中立で、森嶋説に賛同する識者も少なくなかった。その頃レーガン・中曽根時代だったが、ソ連は我が北方領土にも基地を作って軍隊を配置するに至り、米国は、原子力空母や巡航ミサイルトマホークを装備した戦艦を日本に送り、森嶋流敗北平和主義は影をひそめ日米同盟は新時代を迎えた。
3) ソ連を脅かしたSDI 東西冷戦での米ソは、相互に相手を完全に抹殺し得るだけの核戦力を保持しようと競っていたのだが、しかし一定の原則「相互確証破壊Mutual Assured Destruction」は存在した。「どちらが先に核兵器を使っても、最終的には双方が破滅する」と言う核抑止戦略の概念だ。ところがレーガンはこのような平和の維持を倫理的に不健全と断じ、飛んで来るミサイルを上空で撃ち落とす「ミサイル防衛網」SDIの構築を目指すと宣言した。ソ連は猛反対した。
4) 平和を力で守るヨーロッパ 1983年頃、欧州各国の専門家に会って防衛政策を聞いて回った。スウェーデンを含めてどの国も、ソ連の軍事力と政治価値観を重大な脅威と認め、単に戦争がないという状態では駄目で、自国の自由や独立が侵されているのでは意味がないとするコンセンサスがあった。ソ連を脅威と見てはならないとする政治勢力の規模も日本の方が西欧諸国よりずっと大きかった。西独には徴兵制があり、防衛費は絶対額で日本の2倍、GNP比だと3.5%だから、3.5倍、国民一人あたりの防衛費負担は日本の4倍、非核だが、米国の核兵器は国内に多数配備されていた。冷戦の主舞台はあくまで欧州だった事を実感した。
5) 日米同盟成功物語 ソ連は1985年に、それまでボイコットしていた米国との核軍縮交渉に応じた。米国の断固たるパーシング中距離核ミサイル配備に対応した軟化であり、宥和ではソ連から何も引き出せない事の改めての例証だった。ソ連のシュワルナゼ元外相の回想記には「SDIがソ連にとり最大の打撃だった」とある。その後ソ連は崩壊したが、これで日米同盟もその最大の目的を達した。日米同盟はその後の20年間も微妙なブレやきしみを経ながらも屋台骨は揺らがせてはいない。
[筆者の感想] ここには朝日新聞・森嶋教授しか出て来ないが、冷戦時代から、いい加減な事ばかり言っていた左翼の連中が多いのだが、彼らは冷戦終結後どうしているのだろうか。表向き社会主義は止めて、環境とかエネルギーとかに宗旨替えしているそうだが、それにしても、しっかりと反省し前言取り消しを公表してからにしてもらいたい。元社会党の現民主党員も同じである。

憲法9条は対日不信の産物(古森1)

古森義久氏の体験的日米同盟考「アメリカはなぜ日本を助けるのか」が産経新聞出版からH23.6に刊行された。興味深い体験が語られているが、何件かを要約してみる。最初は憲法である。
1) 江藤淳氏の大胆な講演 1980年ワシントンでのある研究発表会で江藤淳氏は「日本の憲法は米国が書き、日本に押しつけた。内容がもう時代に合わない以上、その改正には米側も協力すべき」と当時としては非常に大胆な主張をした。米国の知日派では護憲の意見が圧倒的で、ライシャワー元駐日大使も同じだったし、その本音は対日不信だった。10年程経った1992年、古森氏がガルブレイスに聞いた時も彼の発言は「日本が憲法を変えようとすれば、東アジア・西太平洋地域には激しい動揺や不安定が生じる」であった。
2) 憲法を起草したケーディス 1981年NYの法律事務所に75歳のケーディス氏を訪ねた。「上司経由で渡されたマッカーサーの指示メモに従い、憲法9条は私自身が書いた。戦力の不保持・交戦権の否認などの意図は、日本を永遠に武装解除されたままに置く事だった。その後長い間、日本を自国の防衛能力も意図も十分に持たない半国家として米側に依存させておく事が米国の為というのが、圧倒的多数だった」と氏は述べた。
3) 改憲賛成論の保守派重鎮 超リベラルのガルブレイスと同時期に面談した、共和党保守派の重鎮で安全保障の政策の権威であるニッツェ氏は「日本が9条を修正し、軍隊の存在を認知すると、軍国主義が復活するなどとする見方は、日本を信用していない事が前提だ。日本を真に民主主義国家として信頼するなら憲法改正に対し何の懸念も無い筈」と述べた。
4) ヘリテージ財団改憲提言 1992年頃保守本流の当該財団は(父親)ブッシュ大統領に「日本の民族精神の再形成=米国は責任ある日本の創造にどう寄与できるか」という題の提言書を書き、日本に対し独自の憲法の起草を求めるよう以下のように勧告した。「日本の憲法は第九条であらゆる力の行使や戦争を否定するなど、日本を世界の例外としてしまった。外部世界の出来事に責任ある関与が出来ない為、日本は外部世界を考えもしなくなった。九条は、正義や自己防衛の為の戦争も悪だと見なす消極平和主義の幻想だ。これが無くなると日本は軍国主義になる、という主張には意味がなく、軍国主義復活を防ぐのは無言のウソに基づく憲法条項ではなく、開かれた政治システムだ」。
5) (父親)ブッシュ大統領の返答 以上の様な背景のもと、古森氏はブッシュ大統領の公式記者会見で、日本の憲法について、「もし日本の憲法改正への動きが実際に大きくなったならば、米国は同盟国としてどう対応するか」と質問した。大統領のコメントは「日本の憲法はあくまで日本自身で決めるべきですが、日本の国会がPKO法案を可決した事は歓迎します。日本には確かに憲法問題が存在するが、日本には鋭い歴史感覚があり、変化のペースはあくまで日本自身に任せたい。その日本の自主的判断を私は必ず支持します」であった。
[筆者の感想] 憲法改正の手続きは憲法96条で、国民投票に依るべしと定められており、その国民投票法は2007年に国会で可決成立し公布されており、2010年に施行されている。安倍政権の尽力でここまでは来たが、その後が福田・麻生で停滞し、民主党政権になって以来それどころではなく、完全にストップしている。原発問題でしばらくは無理であろうが、それだけに惑わされる事なく、真剣に勉強し時至らば憲法改正の国民論議をリード出来る心ある国会議員の登場を期待したい。

競争嫌いの日本人

掲題は、大阪大学教授・大竹文雄氏の新著「競争と公平感」(中公新書2010) の第?章の表題だが、その言わんとする所は「我々は、市場競争のメリットを最大限生かし、デメリットを小さくするよう規制や再分配政策を考えるという、市場競争に対する共通の価値観を持つべきであり、市場競争とうまく付き合って生きて行かねばならない」であり、その要旨は以下の通りである。
1. 日本人は特殊?: 「貧富の格差が生まれたとしても多くの人は自由な市場でより良くなるか」の質問に、米・加・英・伊・中・印の各国で70%以上が賛意を表明するのに対し、我が国では49%だ。「自立出来ない非常に貧しい人達の面倒を見るのは国の責任か」に対しては、大半の国で80%以上が賛成、米でも70%賛成なのに我が国では59%に留まっている。
2. なぜ反市場主義に?:  「人生での成功を決めるのは、勤勉よりも運やコネが大事と考える人の比率」は米・中・加・韓などで30%未満なのに対し、日本は41%でありこれより多いのは仏・伊・露のみ、というデータがあるが、日本における勤勉の重要性の認識は、国際的にも低いものになっている。勤勉を重視する価値観の衰退は反市場主義につながる、という米国某教授の研究があるが、その結論の一つは「米国では欧州と異なり、産業化に先行して民主主義が確立しており、大企業への独禁法を始めとする規制など、経済政策における不公正を許さなかった。一方欧州では、大企業に対する反感は、社会主義的な反市場主義的動きとなって現れた」である。この指摘は、日本で市場主義が根付かなかった事の説明にもなっている。 また昨今の事例で言えば、本来無関係どころか相反するものである市場主義と財界主導(大企業主義)との区別があいまいになって、市場主義が既存大企業を保護する大企業主義と同一視されてしまい、反大企業主義イコール反市場主義になってしまっている事もある。
3. 市場経済のメリット: 2008年のサブプライム問題で米経済が不況に入り、米型の市場主義経済はすべてダメだ、規制を強化すべきという議論も多い。それは極端であり市場は失敗する場合もあれば成功する場合もある。経済学はそれを厳密に議論して来たが、失敗の典型例は供給独占と情報の非対称性だ。これらを抑制しつつ市場主義のメリットを最大にする社会の仕組みを考えて行くしかない。市場競争のメリットは何か。売れ残りや品不足が無く我々の生活は市場競争のお蔭で最も豊かになるのだ。しかし、人々の所得格差問題までは解決してくれない。これは所得の再分配に依らねばならないが、市場競争のメリットとは「市場で厳しく競争して、国全体が豊かになって、その豊かさを再分配政策で全員に分け与える事が出来る」という事だ。市場競争のデメリットは、厳しい競争にさらされるつらさと格差の発生だ。この二者の比較において、前述のように日本人の多くは、デメリットの方が大きいと考えるのだ。日本は市場競争のメリットを、自分たちに言い聞かせる努力をして来なかったのではなかろうか。例えば、消費者保護の仕事は、本来公正取引委員会の仕事なのに、消費者庁を別に作ったりする。行政も政治も、市場競争をうまく利用するという発想に欠けている。
4. 筆者の感想: 市場競争は、誰にとっても厳しいもの。競争させられるのは嫌いだ、という人も多いだろう。しかし、より豊かになれる事、誰にでも豊かになれるチャンスがある事は大きなメリットであり、競争に立ち向かわなければならない。人口が我が国の37%の韓国の、世界を又にかけた諸分野での活躍は目を見張るばかりであり、競争原理の徹底の成功は明らかである。お手手つないで一緒にゴールなどと教えている戦後教育の脱却から始めよう。

北方四島返還―その3 [並行協議への再挑戦]

東郷氏の講演のあと著書「北方領土交渉秘録」を読み、引き続き氏の部下だった佐藤優氏のベストセラー「国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて」(刊行は新潮社2005.3、新潮文庫版は2007.11) を読んだ。各章は逮捕前夜・田中真紀子鈴木宗男の闘い・作られた疑惑・「国策捜査」開始・「時代のけじめ」としての「国策捜査」・獄中から保釈、そして裁判闘争へ・となっている。佐藤氏は1960年生まれ、同志社大学大学院(神学修士)のプロテスタント、1985年にノンキャリアーの専門職として外務省に入省、1987〜1995年迄モスクワの日本大使館で勤務、1998〜2000年国際情報局分析第一課主任分析官、東郷氏にはモスクワも含めて部下として仕えた。
1. 「国家の罠」執筆の動機 本書を書いた主な動機を著者は、鎮魂だと言う。「鈴木氏は政治家としての洞察力に優れ、実行力を持つ。この鈴木氏を外務省は、外交政策を推進する為に最大限活用したのみならず、予算・定員など外務省の自己保全にも利用した。幹部が文字通り土下座する姿を何度も見たし、多くの外務官僚が鈴木氏に擦り寄った。2001年に小泉政権が成立し田中真紀子女史が外務大臣に就任すると、女史と外務官僚の間で本格的な戦争が始まり、この過程で外務官僚は鈴木氏への依存度を一層強めた。ところが田中女史が更迭されると、今度は鈴木氏を追い落とす為に、外務次官以下執行部はありとあらゆる画策 (外交秘密文書の共産党へのたれこみなども) を行った」と記載されている。これは鈴木氏に対する鎮魂だが、著者は「北方領土交渉に政治生命を賭した橋本竜太郎氏・小渕恵三氏・森喜朗氏の魂を慰める作品をいずれ書きたい」と文庫版あとがきに記している。
2. 東郷氏の証言 鈴木宗男氏は、やまりん事件・島田建設事件・など政治資金関連で2002.6に逮捕され、2004.11に懲役2年の実刑判決を受け、上告するも2010.9に最高裁は控訴棄却し、現在収監中。佐藤氏は2002.5に、イスラエル学会事件・国後島発電施設事件で逮捕され、2005.2に懲役2年6ヶ月執行猶予4年の判決を受け、上告するも2009.6に最高裁は棄却し判決が確定した。佐藤氏の上司であった東郷氏は米国から一時帰国し、佐藤氏の控訴審で「今回佐藤氏が起訴された案件は、条約局長の明確な決裁に従って実施されたもの、その実施の一端を担ったに過ぎない佐藤氏が、その責任を問われる事はない。氏は公の為、日本国の為、不眠不休で仕事をし、その献身ぶりは余人の及ぶところでない」と証言したのだった。2030年になれば、関連文書が公開されるそうで、これらの文書と東郷氏の証言を突き合わせれば、検察・裁判所の判断よりも自分や東郷氏の主張の方が歴史の真実だったと判明する、と佐藤氏は述べている。検事はこれは「国策捜査」と言ったそうだが、その目的は何だったのか。
3. 筆者の感想 「四島返還絶対」では交渉は無意味というロシアに対し、何とかテーブルにつかせようと、政治家・官僚が知恵を絞った2001年頃は、東郷氏が言うように「一番日露が近づいた時点」であったように思われる。当時も今も我が国では「四島一括返還」が幅を利かせるわけだが、森総理・鈴木議員・東郷氏らが描いた「並行協議」(歯舞・色丹の引き渡しと国後・択捉の討議)に移行し得なかったのは、何とも残念な事であった。民主党政権のお粗末な対応もあり、ロシアによる四島の実効支配が急速に進められているのに、我が国は傍観以外に手が打てないでいる。「もう二島さえも帰って来ないのでは」という、投げやりな意見の人も筆者の周辺に現れて来たが、とんでもない事だ。満州北方領土ソ連の暴虐に涙をのんだ先人の無念をそそぐ為にも、挙国一致の体制で本件に再度立ち向かわなくてはならない。

北方四島返還―その2 [日露交渉の壊滅と再興]

その1では、2001.3の森・プーチン会談で、「歯舞・色丹の引き渡し」と「国後・択捉の討議」の並行協議という日本側提案が、拒否されず辛うじて残ったと言ってよく、両国外務省はこの後者のテーマを今後どのようにさばくかにつき、それぞれシナリオを考える事になる筈だった。しかし、不可思議でお粗末な事態が続き、これ以降、進展なく後退ばかりで今に至っている。
(1) 日本のシナリオ: 東郷氏の著書によれば二つ、?露側に譲歩なく二島返還のみ[`59年フルシチョフと同じ立場]なら、日本政府の回答は「否」、?露側の回答が、「歯舞・色丹は引き渡すが、国後・択捉については、日本が両島を要求する権利を妨げないが、現時点で歩み寄れるのはここ迄」というなら、不満足ではあるが、交渉を前進させるという考え方だったと言う。
(2) 暗礁に乗り上げた日露関係: イルクーツク会談の後、森総理が退任して小泉政権となり、田中真紀子外相が登場したのだが、交渉の継続性を無視した方針を出すなど、対露政策は大きな混乱に陥った。やがて発生した田中大臣と鈴木宗男議員の対立が激しさを増し、結局、田中大臣、野上外務次官、鈴木議員がそれぞれのポストから辞任した。デリケートな交渉を必要とする「二島先行返還」に対し、今までの積み上げを無視した乱暴な「四島一括返還」論が幅を利かせるようになり、日露間の交渉がその後、急展開する事はなかった。
(3) 日本国内の論調: 2005〜2009年頃の新聞切り抜きを取り出してみると、「四島、で結束固める時」とか「あり得ない、とりあえずの二島返還」の文字が躍っている。これはこれであり得る一つの見解であろうが、2009年頃の致命的な事として、麻生・鳩山両首相の「北方四島はロシアによって不法占拠されている」という発言を、東郷氏は講演で挙げていた。森・プーチン会談をガラス細工のように成立させた氏にして見れば、何と不勉強で素人くさくて準備不足ではないかと、東郷氏の腹は煮えくりかえったに違いないと、又首相にこんな発言をさせてしまうスタッフ(政治家・外務官僚)の劣化も酷いな、と私は想像した。
(4) 米が見た北方領土交渉: ごく最近の産経新聞(2011.6.21)に載っていた「北方領土交渉―日本無策の10年」であるが、副題は、「ウィキリークス米公電公開」で、要旨は以下の通り。『日ソ共同宣言(`56年)で規定された歯舞群島色丹島の返還に関する条件と、残りの国後・択捉両島の帰属問題を同時に協議する「並行協議」が頓挫したのは2002年のことだ。その後、新たな枠組みの返還構想が協議された形跡はなく、文字通り「失われた10年」に終わった事が公電からも読み取れる。在日米国大使館発2009.4.19付公電は、情勢は行き詰まっているのに、日本の外交官は「メドベージェフ大統領は北方領土問題を解決する政治的意志を持っており、熱心に取り組もうとしている」と自信を持って語る、と当惑気味に指摘し、かつ「日本側は世間知らずだ」と評している。又「日本には北方領土返還を交渉する為の計画と遂行する指導者に欠けているし、政策の空白は民主党にも広がっている」と断じている、とも。更に公電は、「ロシアに影響力を及ぼし得る人物として元首相の森喜朗氏らを挙げる」一方、「新たなアイデアを打ち出せる政治家・評論家はおらず、対露外交に強い影響力を有し、02年に逮捕された鈴木宗男議員の問題が影を落としている」との見方を示している』
(5) 東郷氏の講演結語: 1945年の忘れ得ぬ記憶[日ソ中立条約破棄の裏切・満州その他での残虐行為]が氏を駆り立てているそうだが、今や交渉は壊滅しロシア化が進み、二島返還さえ危うい、何とか政府は体制を立て直し諦めずに取り組んで欲しいものと後輩への期待を語った。

北方四島返還―その1 [島が一番近づいた日]

三回のモスクワ大使館勤務、ソ連課長、条約局長、欧亜局長、を歴任し、北方領土返還交渉に深く関わった、現在京産大世界問題研究所長・東郷和彦氏の講演を聴いた(6月1日)後、2007年に刊行された氏の著書「北方領土交渉秘録」を読んだ。交渉の内幕を以下に要約する。
(1) 返還交渉の経緯
・1956年日ソ共同宣言(鳩山・フルシチョフ): 平和条約締結後に、ソ連は「歯舞郡島と色丹島」を日本に引き渡す、とした国際約束。「国後・択捉」については何らの記載もなかった。
・1991年日ソ共同声明(海部・ゴルバチョフ): 必ずしも直截明確ではないが、「北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象だと確認」されている。
・1993年東京宣言(細川・エリツィン): 領土問題を、北方四島の島名を列挙して、その帰属に関する問題と位置づけると共に、領土問題解決の為の交渉指針が示された。
・2001年イルクーツク声明(森・プーチン): 日ソ共同宣言が、交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であると確認、その上で東京宣言に基づき四島帰属を解決すると。
(2) 一番日露が近づいた時点 1855年日露通好条約、1875年樺太・千島交換条約、1905年ポーツマス条約、1951年サンフランシスコ平和条約を通じて、少なくも北方四島は我が国固有の領土である事に疑問の余地なし、と日本政府は考えている。しかし、領土問題で譲歩する雰囲気はロシア(政府も国民も)には全くない。このような状況下、1999年に欧亜局長になった東郷氏はプーチン政権との交渉を開始する。森総理が就任した2000年4月、総理は早速訪露して日露首脳会談をやり、7月には沖縄サミットでプーチン氏と会談している。9月にはプーチン氏が来日、11月には河野外相が訪露し大統領と会談、そして同月ブルネイで日露首脳会談が行われた。12月には鈴木宗男議員の訪露、翌年1月の河野外相の訪露。これら一連の外務省の必死の根回しを経て、イルクーツクでの「締め」の森・プーチン首脳会談が2001年3月に行われたのだった。この会談での最大の問題は、日ソ共同宣言の有効性を確認したプーチン大統領が、「歯舞・色丹の引渡し」を言って来た時、日本側が如何にしてこれを「国後・択捉の討議」につなげるか、そこにこそ交渉の成否が掛っていた。すなわち「並行協議」の提案であり、それを補完するものとしての「日本が国後・択捉を放棄する事は、過去・現在・未来にわたって無い」と言う表現だったそうだ。会談は少人数で行われ、加藤良三外務審議官のみが補佐で同席したが、森総理は外務省の用意した発言応答案を参考に自分の言葉で日露関係を語り、プーチン大統領への十分な敬意を表明しつつ、四島に対する日本人の想いを語り、「並行協議」を粘り強く提案し、会談記録によるとこれに対するプーチン大統領の発言は最終的には「承っておく」だったそうだ。何日か後のロシュコフ外務次官との会談で、東郷氏は「次の話し合いをする為にはロシア側としても2ヶ月程度の準備が必要」との次官の発言を得、先方も両国の関係を前進させるべく努力する腹積もりとの心証を得て、交渉は天王山にさしかかろうとしている事を確信したと言う。
(3) 大使としてオランダへ モスクワから帰国した東郷氏は駐日露大使パノフ氏と会談し、「領土問題の前進を図りながら日露関係の全体的発展を目指すのは、我が国の国益だしロシアの国益だ。私が異動した後もよろしく頼む」と協力を求めると、大使は力強くうなずいた、と言う。その後森総理からは、欧州局長としての仕事に対し身に余るねんごろな電話があったそうだ。2001年7月東郷氏は大使としてオランダへ赴任し、以降、日露交渉に直接タッチする事はなかった。