北方四島返還―その1 [島が一番近づいた日]

三回のモスクワ大使館勤務、ソ連課長、条約局長、欧亜局長、を歴任し、北方領土返還交渉に深く関わった、現在京産大世界問題研究所長・東郷和彦氏の講演を聴いた(6月1日)後、2007年に刊行された氏の著書「北方領土交渉秘録」を読んだ。交渉の内幕を以下に要約する。
(1) 返還交渉の経緯
・1956年日ソ共同宣言(鳩山・フルシチョフ): 平和条約締結後に、ソ連は「歯舞郡島と色丹島」を日本に引き渡す、とした国際約束。「国後・択捉」については何らの記載もなかった。
・1991年日ソ共同声明(海部・ゴルバチョフ): 必ずしも直截明確ではないが、「北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象だと確認」されている。
・1993年東京宣言(細川・エリツィン): 領土問題を、北方四島の島名を列挙して、その帰属に関する問題と位置づけると共に、領土問題解決の為の交渉指針が示された。
・2001年イルクーツク声明(森・プーチン): 日ソ共同宣言が、交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であると確認、その上で東京宣言に基づき四島帰属を解決すると。
(2) 一番日露が近づいた時点 1855年日露通好条約、1875年樺太・千島交換条約、1905年ポーツマス条約、1951年サンフランシスコ平和条約を通じて、少なくも北方四島は我が国固有の領土である事に疑問の余地なし、と日本政府は考えている。しかし、領土問題で譲歩する雰囲気はロシア(政府も国民も)には全くない。このような状況下、1999年に欧亜局長になった東郷氏はプーチン政権との交渉を開始する。森総理が就任した2000年4月、総理は早速訪露して日露首脳会談をやり、7月には沖縄サミットでプーチン氏と会談している。9月にはプーチン氏が来日、11月には河野外相が訪露し大統領と会談、そして同月ブルネイで日露首脳会談が行われた。12月には鈴木宗男議員の訪露、翌年1月の河野外相の訪露。これら一連の外務省の必死の根回しを経て、イルクーツクでの「締め」の森・プーチン首脳会談が2001年3月に行われたのだった。この会談での最大の問題は、日ソ共同宣言の有効性を確認したプーチン大統領が、「歯舞・色丹の引渡し」を言って来た時、日本側が如何にしてこれを「国後・択捉の討議」につなげるか、そこにこそ交渉の成否が掛っていた。すなわち「並行協議」の提案であり、それを補完するものとしての「日本が国後・択捉を放棄する事は、過去・現在・未来にわたって無い」と言う表現だったそうだ。会談は少人数で行われ、加藤良三外務審議官のみが補佐で同席したが、森総理は外務省の用意した発言応答案を参考に自分の言葉で日露関係を語り、プーチン大統領への十分な敬意を表明しつつ、四島に対する日本人の想いを語り、「並行協議」を粘り強く提案し、会談記録によるとこれに対するプーチン大統領の発言は最終的には「承っておく」だったそうだ。何日か後のロシュコフ外務次官との会談で、東郷氏は「次の話し合いをする為にはロシア側としても2ヶ月程度の準備が必要」との次官の発言を得、先方も両国の関係を前進させるべく努力する腹積もりとの心証を得て、交渉は天王山にさしかかろうとしている事を確信したと言う。
(3) 大使としてオランダへ モスクワから帰国した東郷氏は駐日露大使パノフ氏と会談し、「領土問題の前進を図りながら日露関係の全体的発展を目指すのは、我が国の国益だしロシアの国益だ。私が異動した後もよろしく頼む」と協力を求めると、大使は力強くうなずいた、と言う。その後森総理からは、欧州局長としての仕事に対し身に余るねんごろな電話があったそうだ。2001年7月東郷氏は大使としてオランダへ赴任し、以降、日露交渉に直接タッチする事はなかった。