軽い言葉の政策でなく人物を見よう

菅直人についての人物評価をまとめる。月刊「文藝春秋」(H22.10)の憂国対談で、ノンフィクション作家・保阪正康とジャーナリスト・徳岡孝夫とが、菅直人の人物評を以下のように行っている。
1. 腹の立つ事が三つある。(1)彼の視線というものは、ものを凝視し、きちっと直視してものを考える目じゃない。小悪人が人の反応を窺うような小賢しい目をしている。(2)言ったことを平気で変える。言葉が軽い。これは菅の政治家としての出自も関わっている。(3)じっくり考えて世界観を作り上げるタイプでなく、眼前の物事にどう対処するかに長けた人物であって、哲学とか思想は語れない。イデオロギーや政治的信念はどうでもよく、政界遊泳術のみ。
2. 菅という人は核心的な物事については、自分の意見をはっきり言わない。今回の中国漁船衝突事件でも、首相としての大局観をまったく語らなかった。船長釈放は検察の判断だったとごまかす。都合が悪くなると他人に責任を押し付けるのも、悪質な市民運動家そのもの。
3. 今回の代表選でも菅は「皆さん、どうですか」という言い回しでよく聴衆に呼び掛けていた。学級会ではあるまいし、指導者が口にすべき言葉ではない。極めて巧妙な責任逃れなのです。
菅内閣が2010.6.8に発足してから、参院選の大敗、日韓併合謝罪談話発出、尖閣事件処理失敗、などなどを経て、一年が経ち与野党から退陣を迫られている今日、産経新聞に元盟友の田上氏が「菅首相の実像」を以下のように語っている。『市川房江の選挙を手伝った頃、四つ年上で頼もしく見えましたが、当時から国家観や哲学なんてものは無かった。社会市民連合の代表となった頃、口の利き方にはほとほとあきれていた。日頃手足となり応援してくれる年上の市会議員が事務所に来ても敬意を払おうとしない。だから話はちっとも和まない。昔からよく怒鳴っていた。そのくせ都合が悪くなると「田上く〜ん」とすり寄って来る。結果が出ないと責任をすぐに「あいつが悪い」と人のせいにする性格が嫌になり、次第に距離を置くようになった』
同じく産経新聞H23.7.18紙上で、京大教授・佐伯啓思氏は「菅現象をめぐる困惑」で以下のような感想を述べ、「民主政治の土台は国民の[人を見る目]にある」と結論づけている。『自党の幹事長・官房長官などを含めた側近からも事実上の退陣を迫られている人物は、かつてなかった。いったい何が起こっているのか。推測出来るのは簡単で、問題は政策論でなく人物論なのだ。政策以前に、菅首相という人物には殆ど人格上の問題がある、という事だ。政権を支える筈の側近までがこぞって菅降ろしに走るのは、この人が首相として不適格だからだと解釈するほかない。さてこれは何を意味するのか。これはただ菅氏という特定の政治家の問題ではない。もしも、菅氏がもっぱら権力に関心を持つ首相不適格者(その点で人格的な問題を持つ人物)だとすれば、そんな事は以前から民主党員には分かっていた事ではないのか。一度は菅氏を支持した民主党員が、今更「首相に相応しくない」などと言える柄ではあるまい。もっと言えばこれは「政治」というものの理解に関わる。民主党は、ことさら政治論議・政策選択と言って来たが、しかし、実は、民主政治にあっては国民が見るべきなのは「人物」なのだと言う事である。小沢・鳩山・菅の民主党をあれほど支持した人々は、今更期待外れだったと簡単に言えるものではあるまい。政策は言葉で語られる。しかし、今日の政治舞台では言葉はあまりに軽々しく便宜的でかつ耳当たりよく使われる。すると問題は言葉を使う人物へと戻って来るのであり、我々の人物を見る目に帰着するのだ』と述べ、先述の結論のように締めくくっている。
筆者もこんな人物を代表に選んだ民主党議員一人ひとりの責任は極めて大きいと慨嘆している。