ソ連の崩壊と日米同盟の勝利(古森2) 

古森義久の著書「アメリカはなぜ日本を助けるのか」の第9章の要旨で(古森1)に続いています。
1) ソ連の核ミサイルSS20 1980年代前半の核問題というのは、ソ連が1977年から西欧各国や日本を射程に収めて配備を始めた、凄い威力の戦域核ミサイルSS20の事であり、5年後に300基を越えていた。米欧側はその撤去や削減を求めたがソ連は応ぜず、米欧側としてはパーシング?型核ミサイルと巡航核ミサイルを、西独他5ヶ国に配備せざるを得なかった。この時、西欧諸国、特に西独ではこの配備に対する反対運動が盛んになり、日本でもこれに呼応して反核運動が広がった。西側の配備反対のみを叫ぶ理不尽な運動だった。ソ連の心臓部には届かない設計なのに、朝日新聞は「モスクワを6分で攻撃できる」などとソ連の宣伝情報をそのまま繰り返し報道した。1983年11月西独連邦議会はミサイル配備を可決したが、配備開始と共に反核運動はばたりと止んだ。
2) 関・森嶋防衛論争 1979年に日本の論壇の注目を集めたこの論争の発端は、関嘉彦氏の「日本の安全保障政策」についての一文であり、ロンドン大学の森嶋教授が反論を寄せて始まった。関氏は「日本は日米同盟を堅持しながら、ソ連の武力侵攻に対抗する為に、独自の防衛態勢を強めるべき」と主張するのに対し、森嶋氏は「ソ連が侵略して来たら降伏すればよい」という非武装中立で、森嶋説に賛同する識者も少なくなかった。その頃レーガン・中曽根時代だったが、ソ連は我が北方領土にも基地を作って軍隊を配置するに至り、米国は、原子力空母や巡航ミサイルトマホークを装備した戦艦を日本に送り、森嶋流敗北平和主義は影をひそめ日米同盟は新時代を迎えた。
3) ソ連を脅かしたSDI 東西冷戦での米ソは、相互に相手を完全に抹殺し得るだけの核戦力を保持しようと競っていたのだが、しかし一定の原則「相互確証破壊Mutual Assured Destruction」は存在した。「どちらが先に核兵器を使っても、最終的には双方が破滅する」と言う核抑止戦略の概念だ。ところがレーガンはこのような平和の維持を倫理的に不健全と断じ、飛んで来るミサイルを上空で撃ち落とす「ミサイル防衛網」SDIの構築を目指すと宣言した。ソ連は猛反対した。
4) 平和を力で守るヨーロッパ 1983年頃、欧州各国の専門家に会って防衛政策を聞いて回った。スウェーデンを含めてどの国も、ソ連の軍事力と政治価値観を重大な脅威と認め、単に戦争がないという状態では駄目で、自国の自由や独立が侵されているのでは意味がないとするコンセンサスがあった。ソ連を脅威と見てはならないとする政治勢力の規模も日本の方が西欧諸国よりずっと大きかった。西独には徴兵制があり、防衛費は絶対額で日本の2倍、GNP比だと3.5%だから、3.5倍、国民一人あたりの防衛費負担は日本の4倍、非核だが、米国の核兵器は国内に多数配備されていた。冷戦の主舞台はあくまで欧州だった事を実感した。
5) 日米同盟成功物語 ソ連は1985年に、それまでボイコットしていた米国との核軍縮交渉に応じた。米国の断固たるパーシング中距離核ミサイル配備に対応した軟化であり、宥和ではソ連から何も引き出せない事の改めての例証だった。ソ連のシュワルナゼ元外相の回想記には「SDIがソ連にとり最大の打撃だった」とある。その後ソ連は崩壊したが、これで日米同盟もその最大の目的を達した。日米同盟はその後の20年間も微妙なブレやきしみを経ながらも屋台骨は揺らがせてはいない。
[筆者の感想] ここには朝日新聞・森嶋教授しか出て来ないが、冷戦時代から、いい加減な事ばかり言っていた左翼の連中が多いのだが、彼らは冷戦終結後どうしているのだろうか。表向き社会主義は止めて、環境とかエネルギーとかに宗旨替えしているそうだが、それにしても、しっかりと反省し前言取り消しを公表してからにしてもらいたい。元社会党の現民主党員も同じである。