東大寺の除夜の鐘                   

 いつもは六甲山の前山にある、自宅からも近い鷲林寺に除夜の鐘を撞きに行くのだが、今回は思い切って遠出をする事にした。大晦日の22時に出発し第二阪名道路の生駒山のトンネルを抜け一時間少々で東大寺に到着、南大門横の駐車場に車を置いて大仏殿の右手を行くと大勢の人が並んでおり、その最後尾につく。しばらくして記念の印刷物(下図右)が配られたが、これが整理券代わりであって、もらえれば鐘を撞かせてもらえるというわけだ。
奈良の大仏(盧舎那大仏)で知られる東大寺華厳宗大本山であり、728年に第45代聖武天皇が建立した金鐘山寺(キンショウサンジ)に遡るが、その後大和国分寺として金光明寺(キンコウミョウジ)に改名される。745年に再び平城京に遷都した後、大仏の造立工事が始まり749年にその鋳造が完成し、752年に大仏開眼供養が行なわれた。 大仏殿・今はない講堂西塔東塔などが造営され七堂伽藍が整い、国都平城京の東に建つ大きな官寺という意味で「東大寺」と呼ばれるようになったという。以後1180年に平重衡の軍勢によって大仏殿を始め伽藍の大半が焼かれ(治承の兵火)、室町時代の末期1567年には三好・松永の乱により、大鐘楼などは残ったものの大伽藍は再び灰燼に帰した(永禄の兵火)。その後百年余りの歳月を経て徳川幕府は諸大名にも協力を仰いで東大寺の再建造営に取り掛かり、1692年に開眼供養を、1709年に落慶供養を行なう事が出来たが、更に明治・昭和の二度にわたる大仏殿大修理を経て現在に至っている。以上東大寺の略歴である。
さて全高3.85m最大直径2.71m重量26.4ton青銅製の巨大な梵鐘だが、大仏開眼供養の前年751年に鋳造され、開眼会の前日第46代孝謙天皇の御幸を仰いで鐘楼に架けられたと伝えられる。音色は低音豪壮で長く響き渡る事で知られ、平等院三井寺のそれと共に日本三名鐘とされている。ちなみに撞木は長さ4.48m直径30cm重量200kgのケヤキである。現在の鐘楼は鎌倉時代(1207〜10)に栄西禅師によって再建されたものだが、梵鐘・鐘楼共に国宝に指定されている。零時から始まって徐々に列が前進し30分過ぎた頃75回目の打順が回って来た。8人で綱を引いて撞くわけだが、「引いて!放して!」という掛け声に合わせて、あっという間に終わる。その後道一杯の行列の中に入りやっとの事で春日神社に参拝して一件落着。無事帰宅ではあったが、元日は11時の起床となった。