サロマ湖常呂遺跡(その1)              

 冬の二度目の北海道旅行はJAL伊丹空港を発ち新潟・盛岡・釧路・女満別がルートである。本州は殆んど厚い雲に覆われていて残念だったのだが、北海道東部に来ると俄然晴れて、左手に雪を頂く日高山脈・十勝連峰・大雪山系が遥かに望まれる。初めて目にする想像以上の絶景だ。着陸後はタクシーで高台の天都山に行き展望台に登ると、流氷でびっしりのオホーツク海の向こうに雪山が続く。備え付けの望遠鏡を覗くと左から知床山系・羅臼岳・海別岳そしてパンフレットからスキャナー取り込みした斜里岳(写真右上)が見える。しばらくの堪能後、網走湖畔・能取湖畔を経由して常呂(トコロ)町サロマ湖東岸の瀟洒なホテルに着く。右下の写真(もちろん夏)はオホーツク海からサロマ湖を見た航空写真だが、湾が堰き止められて出来た、深度約20m長さ約20km・幅200m〜700m我が国三番目の湖であり、湖口から海水の出入りがかなりありホタテの養殖も盛んである。4月下旬から9月はサロマ湖オホーツク海を隔てる細長い砂州ハマナスを始めとする300種もの花が咲き競い、水鳥が群れをなし、夕景の美しさは息を呑むほどとパンフレットにはあるが、今の時期は50cmの厚い氷で全面覆われた白一色の湖面を数台のスノーモービルの動きと数ヶ所でのわかさぎ釣りのみがホテルの大きな窓からの眺めである。
 次の日、雪の降り続く中を防寒服に身を固めて近くの常呂遺跡見学に出掛ける。最初の発掘は昭和32年、それは現在の青森三内丸山遺跡発掘と同じようなセンセーションを起こしたそうで、その後現在まで東京大学によって研究が続けられている。本州と北海道の考古学編年表によれば、縄文時代の様相は両者の間にあまり違いが無いが、2000年前頃からの本州の弥生・古墳文化に対し北海道は続縄文文化(栄浦第二遺跡・常呂川河口遺跡)であり、奈良平安鎌倉時代には擦文文化・オホーツク文化が、室町時代以降はアイヌ文化が対応しているようである。サロマ湖を望む丘陵に広がる森は遥か古代から人々の暮らしの舞台となって来たようで、確認されているだけでここ常呂遺跡には2500軒の竪穴住居跡があり、縄文の村は丘陵の東に、続縄文の村は北に、擦文の村は西にそれぞれ広く分布しているという。 一遺跡の中で各文化の立地が異なっているのは大変珍しく、平成2年に史跡常呂遺跡として追加指定を受けたが、各時代跡地に縄文文化1棟、続縄文文化1棟、擦文文化4棟の復元住居が建設されているようだ。写真は夏だろうが、雪に埋もれた状態の方がより現実感があった。