サロマ湖常呂遺跡(その2)                

 雪に埋もれた復元竪穴住居を見て回った後、「開館中」の標示がぶら下がっている「ところ遺跡の舘」(写真下左)に入る。若い男性管理人が一人居て、今の時期には殆んど来館者は居ない筈なのに珍しい事、といった顔つきで迎えてくれる。竪穴住居をイメージして建てられた館内には町内各遺跡から出土した各時代の様々な遺物・住居模型・遺構全体模型・などが展示されているが、それと共に10分程度の映像解説がある。帰りがけに、何か資料のような冊子がないかと問うと、常呂町郷土研究同好会発行・大西信重編「大西信武と常呂遺跡」という75ページの手帳版小冊子を出してくれた(500円)。 終戦直後から遺跡の保存を各方面に訴え続けて来たお父さんの遺跡発見の経緯を息子さんがまとめたものであった。
 館を出て雪の降り続く丘陵を更に登ると東京大学文学部「常呂資料陳列館」(正式には、東京大学大学院・人文社会系研究科・常呂資料陳列館―昭和42年竣工鉄筋コンクリート造3階建)に来る。展示内容の質は高く考古学ファンなら目を離せないと評判の施設。びっしりと土器を中心に陳列されている。(その1)に記したように、北海道には擦文文化というのがあって時代は奈良時代以降に対応するのだが、土器の文様が縄文から木のヘラで擦った痕がある擦文土器に変わった時代だそうな。 それと同じ頃、7から13世紀にかけてオホーツク海沿岸に謎の海洋民族であるオホーツク人が登場する。彼らはアザラシ・オットセイ・クジラなどの海獣狩猟を主体に漁労・陸獣狩猟を行なっていたようだが、最近は住居からオオムギ・キビ・アワなどの種子が発見されており、小規模な栽培も行なわれていたと考えられている。このオホーツク文化(写真はオホーツク土器)を担っていた人々はサハリン島から海峡を越えて南下し北海道の北部沿岸から東部地域へと、更に千島にまで生活圏を広げて行ったと考えられている。もちろん、この時期、前述のように、本州の土師器文化の影響を強く受けた擦文文化の人々が居たわけで、時が経つにつれてオホーツク文化は、広く北海道に分布していた擦文文化に吸収されて行ったと言われている。帰りに記帳ノートを繰って見たところ、昨年は最初の入館者が2月2日で最終は12月12日、4月から10月が主で年間入館者数は約250であった。大事な施設がきちんと維持されているのを知り、とても豊かな気分だった。