満州はシナではない (渡部昇一新刊その1)

 渡部昇一氏の新刊「昭和史、大正末期〜226事件松本清張と私」は、昭和39年から46にかけて週刊文春に連載された松本清張氏の力作「昭和史発掘」を遡上に載せ、要するに、共産党支持の松本氏の記述は「暗黒史観」を基調にした一面的なものであり、実際は当時のソ連やドイツなどでは考えられないような民主的政治が日本では行われていたのだという事実との対比で、渡部氏の見解を述べた著書である。特に満州事変について、東京裁判も「昭和6年満州事変を日本のシナ侵略の第一歩」と捉え、これ以降敗戦までの15年間を日本軍国主義の時代として断罪しているが、このような見方は終戦直後の占領軍に押し付けられた一方的歴史観に過ぎないとし、そもそも、満州はシナではないという点についてレジナルド・ジョンストン(香港総督府秘書の後、皇帝溥儀の家庭教師となった英国人)の名著「紫禁城の黄昏」1934年刊 (以下・[紫禁城])などを引用しつつ以下のように論証している。
(1) 日露戦争勝利の際のポーツマス条約で、遼東半島(関東州) の租借権と南満州鉄道の経営権
を獲得したが、当時の国際状況からみてこれは少しも理不尽な事ではなかった。([紫禁城]には「シナの人々は満州の領土からロシアの勢力を駆逐するために、いかなる種類の行動をも取ろうとはしなかった。日本がロシアに勝利しなかったなら、満州は今日(1934年)のロシアの一部となっていた事はまったく疑う余地がない」とある。)
(2) 渡部氏は満州の歴史を述べているが、私の調べたところでもそれは以下のようである。12世紀に中国の北半分を支配した女真民族が「金」を建国。16世紀に女真族の一部(マンジュ)の族長ヌルハチによって支配された地域は満州国と呼ばれたが、更に周辺を併合して「後金」を建国。息子のホンタイジはこれを発展させ万里の長城以北(「明」から見れば化外の地)を「大清国」と改称した。1644年に後継者のフリン(シナを統治する初代大清皇帝順治)は「明」を滅ぼして長城以南に進出し、中国全土を満州民族が支配する体制を築いた。
(3) 清朝の時代、満州は「封禁の地」とされ、漢民族(シナ人)の立ち入りは禁止された。満州の地に興った清朝がシナ本土を治めたから、満州とシナは清朝の領土という事になったのだが、一旦清朝が倒れてしまえば(辛亥革命)、満州漢民族の土地ではないので、満州とシナ本土は何の関係も無くなるのが道理。満州清朝の故郷であってシナではないのである。[紫禁城]には「遅かれ早かれ、日本が満州の地で二度(日清日露)も戦争をして獲得した莫大な権益を、シナの侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信する者は大勢いた」とある。1933年のリットン調査団報告書も、満州を巡る問題は極度に複雑であると言い、満州における日本の特殊権益を認めていた。
 さてラストエンペラー溥儀はこの[紫禁城]に序文を寄せ、当時の事を一番よく知っているのが著者ジョンストンだと書いているのだが、極めて残念な事にこの書物は東京裁判の証拠資料として採用されなかった。この[紫禁城]を読めば、満州事変の頃から一貫して日本はシナ侵略の共同謀議を行って来たという連合国側の大前提が崩れ、裁判自体が成り立たなくなってしまうからなのだが、それにしてもこんな重要書籍の完全翻訳出版がつい最近の事とは驚くべき事である。(岩波文庫にあったのだが、日本に有利な記述の部分はカットされていたそうだ) 東京裁判判決はやはり不当と考えざるを得ないのであり、大東亜戦争の責任検証はまだまだこれからなのである。