「国益」を忘れた栗山論文の笑止  

元外務次官・駐米大使の栗山尚一氏が「外交フォーラム」2006年1・2月号に発表した「和解―日本外交の課題」について、産経新聞古森氏が「諸君」本年5月号で掲題のように批判している。8頁に及ぶ古森氏の文章を下記に要約する。これは私の考え方とほぼ一致する。
(1)栗山主張を総括すると「日本は『歴史の負の遺産を直視』し、『過去への反省』を世代を越えて続けて行かなければならない」という主旨だとし、古森氏は「この主張は日本人への不信そのものだ。例えば、一度刑法上・道義上でも悪と見なされた人間の子孫は「世代を越えて」社会では一人前とはなれず、普通の日本国民としての権利さえ奪われねばならないという事か」とその不自然さ、その主張の愚を指摘する。
(2)栗山氏は「日本の対外姿勢のあり方を『過去への反省』という抽象概念で決め付ける」が、「どんな国でも国民にとっての安全や平和や繁栄を重視するならば、外交政策や安保政策はまず目前にある国際環境への対応を最大の指針とするのは当然」と古森氏は言う。
(3)栗山氏は「靖国神社遊就館に強い違和感を覚える。首相の靖国参拝は同神社の大東亜戦争肯定の歴史観を首相が共有しているとの印象を与えるので参拝は控えるべき」と言うが、古森氏は「靖国に詣でる人たちには参拝路から離れた場所にある博物館の展示や説明こそが参拝の理由だと言うケースはまず無かろう。更に言えば、小泉首相靖国神社歴史観を共有しておらず「戦争肯定の歴史観」は否定している。栗山氏は自国の首相の言葉よりも中国側の歪曲を重視し優先させ、そんな基準によって自国首相の行動を非難しているのだ。中国側の曲解こそ非難さるべきとの発想が何故わかないのか」と慨嘆する。
(4)栗山氏は「戦後のドイツは国際的信頼を得る為に懸命な努力をした」と言うが、「日本は戦争の相手でもないユダヤ民族の抹殺に類する行為は一切行っていない。日本は『平和に対する罪』は勝者から問われたが、ドイツは『人道に対する罪』を問われたという違いをどうして一緒にしてしまい、何故そこ迄日本を悪者にしたいのだろう」と古森氏は述べる。
(5)栗山氏は「日米同盟を補完する地域的枠組みを構築せよとか、北東アジアの地域的安全保障システムを作れとか、いかなる利害対立も武力でなく平和的手段で解決すべし」などというが、古森氏は「いずれも日本が自国の安全保障や防衛をどうするのかではなく、他国に何かしてもらうという提案だ。台湾問題はじめ対外紛争を武力で解決する事が国是にさえ見える中国をどうやって『平和的に解決する』事に同意させるというのか。この辺の栗山氏の安全保障に関する現実的な意識の欠落は、中国の一国独裁は指摘しても、その異様な軍事力大増強には一言も触れていない事でも実証されている」と突く。
(6)栗山氏は「中国が独裁国であっても、日本側には、民主主義国同士では必要とされない知恵と努力が求められる」とひたすら日本側への更なる譲歩や妥協を訴える。「中国に対しては恒常的な反日の教育や政治宣伝を肯定はしないと言いながらも、それをやめろとは決して求めない。とにかく中国には甘いのだ。『和解は相互的なプロセス』と迄は認めながらも、相手への相互的言動を具体的には何も要求しない。とにかく日本だけをいたずらに責める自虐志向なのである」と古森氏は総括する。
 1990年湾岸戦争前後の事だが、「自分の目の黒いうちは自衛隊は海外に出さない」と当時外務次官だった栗山氏は豪語したそうだ。しかし、1992年に国際平和協力法案が成立し、当時の小沢自民党幹事長がワシントンを訪れ、自衛隊の海外派遣を日本の新たな国際貢献としてアピールする演説をした際、何と栗山氏はパチパチと拍手を送ったという。このような不誠実な元外交官が十数年経った今また亡霊のように現れ、説教するとはその厚顔さにあきれると古森氏は言う。