宿坊一泊の高野山めぐり                        

何に触発されてか、家内は6月19日(金)の晩、翌土曜の夜宿坊に泊まれるかどうか高野山の西南院に電話で聞いたようで、そしてそれがOKだったらしく、突然私も巻き込まれて同行する事になった。早朝発って名神近畿自動車道で富田林市に行き、後は一般道で河内長野市橋本市へ、紀ノ川を渡ってから南海高野線に沿って九度山(クドヤマ)町を通過、高野町に入ってからはかなり急な山道を右に左にハンドルを切って登ると、標高900Mの高野山入口の大門(二階建25M馬鹿でかい)が現れ、その少し先に前夜予約した西南院が見つかる。時刻は9時半、ここまで約3時間。車を置いて早速H16.7.7に登録された世界遺産 (紀伊山地の霊場と参詣道)の見学を開始する。
最初は根本道場・大伽藍。ここには20弱の堂宇があるが、有名なのは金堂・根本大塔・御影堂。根本大塔は高さ約50Mの二重ノ塔だが余りに真新しいので調べてみると、最初のは887年頃完成したのだが、994年・1149年・1630年には落雷で全焼とか、現在のは1937(S12)年再建の鉄筋コンクリート製、1996(H8)年に外壁塗り替え、となっている。この伽藍の入口が広場になっていて大きな礎石がいくつも残っており、中門跡と標示されている。同じく焼失・再建を繰り返したものの1843年以後は再建されず、来る2015(H27)年の「高野山開創1200年記念大法会」を期して170年ぶりの再建が計画されている。道路を隔てて対面の霊宝館に入る。霊宝館は高野山内117の寺院が有する貴重な文化遺産を保存展観する施設として1921(T10)年有志者からの寄付で開設されたそうだ。現在国宝21件、重文143件をはじめ指定宝物文化財約2万8千点を収蔵している。霊宝館を出たところの木陰でおにぎり昼食、長椅子に横になって青空を眺めつつウトウトする。次は少し境内の奥へ進んで金剛峯寺に行く。この名称は高野山一山の総称であったが、それまで青巌寺と呼ばれていた建物が明治2年金剛峯寺と改称されたそうだ。座主の住寺であるが、高野山全体を総括する伝統はそのままここに残され、又高野山真言宗の総本山として一切の宗務を司る宗務所があって末寺4000の行政を統べている。石庭として我国最大の蟠龍庭がある。金剛峯寺の北側の徳川家霊台(家康・秀忠)に回り、戻って最後に大師教会を見て西南院に戻る。午後4時にチェックイン。シーズンだと何十組も泊まれそうだが、今は端境期らしく僅か4組だけで、我々は以前は茶室だった部屋に入れてもらう。小山を背景にした手入れの行きとどいた広い庭に面しており、司馬遼太郎も西南院に泊まったとあるので、多分この部屋ではないかと勝手に想像したりする。一風呂浴びた後は、まだ若い修行僧が運んでくれた御膳でごま豆腐とか地元の精進料理を頂く。明朝6時半からの仏堂での勤行を勧められる、両親の戒名を聞かれるが覚えてないので先祖全員にしてもらう。
翌早朝少し早めに仏堂の最前列に座る。二人の僧侶が現れ読経が始まる。我々も20分の久し振りの正座のお勤めだ。部屋に帰って朝食を済ませ二日目のスタート。前日は長細い高野山境内の入口側半分だったから、今日は一の橋近くの路上に駐車し、奥の院へ続く石畳の2kmの参道を歩く。道の両側の、ただひたすら真っすぐ天に向かって伸びきった杉の古木の連なりに圧倒されるが、長らく伐採が禁じられて来たので樹齢数百年になっているという。その大木の根方には無数の苔むした墓石がひっそりとたたずんでおり、一帯の墓塔の数は20万余基に達すると言われている。無名の庶民の崩れかけた墓もあるが、大型は戦国の武将の、或いは江戸時代の大名家の墓所であったり、はたまた現代の著名企業の慰霊碑だったりする。昨日見て回った堂宇が焼失とか焼き討ちによる破壊後の再建であるのに対し、奥の院に至る鬱蒼とした墓原に居ると、空海の開創以来の長い歴史が思い起こされ感銘を覚える。最後の石段を登ると、弘法大師御廟の前の拝殿では大勢の僧侶による大師命日(835.3.21)の読経が続けられていた。石段を下り国道の歩道を歩いて車に戻り、私にとっては45年ぶりの、家内は二度目の高野山観光は終了した。