年末土佐旅行(その一)            

軽登山の実績を増やすべく四国の石鎚山(1982m)と剣山(1955m)にあいついで登ったのは4年ほど前であった。四国北部にはある程度高速道路が出来ていたが、登山口近く迄の道路は狭く、すれ違いもどちらかが一旦バックするという個所が多く、中々大変だというのがその時の印象で、それ以降出かけたことはなかった。今回は山地には入らず、南部海岸地方を巡る3泊4日の年末夫婦旅行である。明石大橋・鳴門・徳島から四国東部海岸道で室戸岬へ、土佐湾に入って足摺岬辺り迄足を伸ばして行ってみよう、帰りは最近完成した高知自動車道で四国を横断し瀬戸大橋・山陽道で帰る、というのが計画概要だ。
その足摺岬だが、その日は快晴で無風に近く、春先のような穏やかな日和で、灯台近くから見下ろすと大小ある全ての岩礁にそれぞれ陣取った釣り人が黒鯛を狙っている。足摺国立公園には、空海若き日の修行の聖地と伝えられ今は四国霊場第38番札所の嵯跎山金剛福寺もあるが、何と言ってもジョン万次郎の銅像とJohn Mung House が興味深い。
乗っていた漁船が突然の嵐で自由を失い6日目に南海の孤島・鳥島に漂着し、143日後に米国の捕鯨船に救出されてから彼の数奇な人生が始まる。ホィットフィールド船長の故郷マサチューセッツ州フェアへブンで教育を受け、一流の捕鯨船航海士となって7つの海を駆け巡り、約10年後に沖縄にたどり着き帰国を果たしたのだが、それは本人が24歳で、ペリーの最初の来航(1853)の2年前だったと言う。言わば日本人の米国留学生第一号で、帰国後彼は土佐藩の藩校の教授に任命され、若者たちに西洋文明につき熱心に話して聞かせているが、その中に18歳の坂本龍馬・15歳の後藤象二郎がいた。その後万次郎は老中阿部伊勢守から呼び出され幕府直参となって、航海学書の翻訳・西洋型帆船の建造・軍艦教授所教授などの任に当たる。  
1860年33歳の時、万次郎は遣米使節団の一員(教授方通弁主務)として咸臨丸で渡米する。1854年日米和親条約・1858年の日米修好通商条約の批准交換が目的であるが、正使らは米国軍艦に乗り、勝海舟が船長の咸臨丸は護衛であろうか。福沢諭吉(26歳)とも一緒であったが、万次郎・諭吉が共にウェブスターを購入したエピソードは有名とか。帰国後薩摩藩の開成所で航海術等を教えたり、土佐藩のために上海まで船を買いに行ったりしている。明治になると東大の前身である開成学校の教授に任命され、明治3年には大山巌らに同行して渡欧している。
図書館で検索すると昭和12年刊行の井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記」は直木賞受賞作であり、井伏鱒二自選全集第二巻に集録されている。万次郎から4代目の中浜博氏の「私のジョン万次郎」(子孫が明かす漂流150年目の真実)が平成3年に出版されており、目次は漂流から、万次郎の末裔たち迄、大変興味深い。万次郎は71歳で生涯を終えた(墓は谷中仏心寺の境内)が、昭和62年に土佐清水とフェアへブンが姉妹都市となり、フェアへブンではジョン・マン祭りが毎年10月に華やかに行なわれるという。