年末土佐旅行(その二)
すっかり暗くなってしまったがその日のうちに足摺岬から高知市に戻る。翌早朝、まず高知城を訪ねる。追手門から入って板垣退助像の脇の石段を登ると「千代夫人と馬」の像に出会い、更に行くと二の丸跡の広場で、天守閣と本丸正殿に入れる筈だが生憎年末休館。南へ10km行って桂浜に出、坂本龍馬記念館は同じく休館なので、龍馬銅像に行く。身分の低い郷士でありながら、幕末最大の転機となった薩長同盟を成功に導き、私設海軍「海援隊」を創設し、土佐藩を動かして幕府に大政奉還を迫らせた坂本龍馬、とあってもこちらの知識不足であまり実感がわかない。万次郎の人生が数奇ではあっても単純明快なのに比べ、尊王攘夷佐幕開国の四つが複雑に組み合わさった幕末各藩の思惑の中で龍馬がどのように動いたかの理解は、そう簡単ではない。事実関係を整理してみる。
1)‘53 ペリー来航、12代将軍家慶没、13代家定。龍馬(17歳)江戸へ、北辰一刀流。
2)‘54 ペリー再来航、和親条約。龍馬(18歳)江戸から土佐へ帰る。
3)‘55 安政大地震。
4)‘56 ハリス来日。龍馬(20歳)再び江戸へ。北辰一刀流免許、剣士として知られる。
5)‘57 下田条約締結。
6)‘58 井伊大老、修好通商条約、家定没、14代家茂,安政の大獄。龍馬土佐へ帰る。
7)‘59 横浜開港、吉田松陰刑死。
8)‘60 遣米使節咸臨丸、桜田門外の変(井伊大老死)、和宮降嫁(公武合体)。
9)‘61 安藤信正老中、異人切り続発。龍馬(25歳)、土佐勤王党に加盟。
10) ‘62 坂下門外の変(安藤老中負傷)。龍馬(26歳)脱藩、江戸へ、勝海舟を訪う。
11) ‘63 長州藩外国船砲撃、薩英戦争。龍馬(27歳)神戸海軍操練所の塾頭。
12) ‘64 参与会議発足、自然流会、外国艦隊下関を砲撃。龍馬(28歳)西郷隆盛と知合う。
13) ‘65 慶喜条約勅許力説、孝明天皇慶喜を信任。龍馬(29歳)亀山社中で通商航海業。
14) ‘66 薩長同盟成立、家茂病没、孝明天皇病没、15代将軍慶喜。
15)‘67 龍馬は後藤象二郎らと「船中八策」をまとめ、藩主容堂は大政奉還を建白、慶喜はこれを入れて上奏、 朝廷はこれを許可、大政奉還の実現。その後龍馬は土佐・長崎・福井を奔走、新政府の構想を練る。京都の下宿近江屋で中岡慎太郎と会談中、幕府見廻組に襲われ倒れる。享年32。
龍馬の生きた幕末の15年の政治状況がそれなりに想像され、千頭清臣の言うように「その両眼やや近視らしき風あり。しかれどもその精神に至りては遠視達観、人に先んじて時勢を洞察するの明あり。」の龍馬だったかもしれないが、無学の剣士がなぜそれ程の知性を持つようになったか、少々不思議ではある。仮設階段を登ってその横顔をじっと見つめながら、それから150年経って、同じく大転換期を迎えた我が国の現下の風景と対比してみる。慨嘆することしきりである。