パール博士顕彰碑を訪ねて                  

昨年10月のA4短文「日本近現代史を読み直そう」で東京裁判の参考文献を紹介したが、その一つ「パール判事の日本無罪論」(田中正明著・小学館文庫)の247頁に、1997年京都東山に建立されたパール博士顕彰碑の写真が載っている。いつか行ってみようと思っていたが、今日そぼ降る雨の中それが実現し、京都駅から北東方向3kmの霊山(りょうぜん)護国神社内の現地を訪ね写真を撮ってきた。大変大きな碑で、添付の写真の左側には以下の英文が刻まれており、右側がその訳だが、併せてご紹介しよう。
  When time shall have softened passion and prejudice,
when reason shall have stripped the mask from misrepresentation,
then justice, holding evenly her scales, will require
much of past censure and praise to change places.
       時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには,
        また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには,
        そのときこそ,正義の女神は,その秤を平衡に保ちながら,
        過去の賞罰の多くに,そのところを変えることを要求するだろう。
  11人の判事の一人として当時67歳のパール博士はカルカッタ大学の総長を辞して着任し、膨大な資料を読破して、多数派判決文より長い英文25万字1235頁に及ぶ「判決書」を執筆した。全七部構成の最終部「勧告」で「被告全員は無罪」と主張し、その勧告文の最後を上記の言葉で結んだのである。この心血がそそがれた判決書は法廷においては公表されず、関係者の努力で判決後3年半目の1952年4月28日(日本独立の日)に「パール日本無罪論」として出版されるまで書庫深くに埃をかぶったままだったそうだ。
  しかし、1948年11月12日の判決の日以降、欧米の法曹界・言論界ではこのパール博士の少数意見が非常な波紋を呼んでいたと言う。一例ではあるが、英国の国際法の権威であるハンキー卿が1950年刊行の著書「戦犯裁判の錯誤」でパール判決の正当性を明言し、米国最高裁のダグラス判事は1949年「極東国際軍事裁判所は政治権力の道具以外の何物でもなかった」とパール判決を支持している。実質的に裁判をリードしたマッカーサーはその後解任されて帰国したが、当人自ら上院軍事外交委員会での査問の際「日本が第二次大戦に飛び込んで行った動機は安全保障の必要に迫られたためであり侵略ではなかった」と証言し、トルーマン大統領との会談においてははっきりと「東京裁判は誤りであった」と報告したむね、アメリカ政府自身が発表したと言われている。
  当時の日本の新聞や雑誌がこれを取り上げ得なかったのは、占領下の検閲制度によるものとしても、その後独立し言論に自由過ぎる程の自由が与えられてからも、当の日本では一向にこの問題が問題とならず、国際法を無視した不公正な判定を鵜呑みにして今日に至っているのは一体どうした事だろうか。 何かが少しおかしいと私は考え込んでいる。