淡墨桜(ウスズミサクラ)の伝説――継体天皇御手植桜  

  奥美濃最高峰で、岐阜福井県境の能郷白山(1617m)に翌朝挑戦すべく、午前10時頃宝塚を発つ。名神の大垣ICで降りて国道157を一時間半北上すると目指すホテルだが、直前に国指定天然記念物「根尾谷淡墨桜」がある。説明板によると、この桜は樹齢1500余年、回生を図るべく昭和24年に近くの山桜の若根238本で根接ぎしたところすっかり元気になった、樹高17.2m・幹回り9.1mで花の盛りは4月上旬、更に伝説として、都での迫害を逃れてこの地に潜まれた男大迹(オオト)王が長じて29歳の時都に迎えられて皇位を継承し継体天皇と称せられたが、この地を去るに当たり形見としてこの桜を植えられたと言う。
  公園隅の根尾村郷土資料館でのパンフレットによると、1550年余り昔16代仁徳天皇の長男履中天皇の第一皇子の市邊押盤(イチノベオシハ)皇子が、皇位継承をめぐって、従兄弟の大泊瀬(オオハツセ)皇子(後の雄略天皇)に殺害された、市邊押盤の長男億計(オホケ)王、次男弘計(オケ)王らは、同じ境遇だが遠い親戚の吾田彦(ワレダヒコ)[吾田彦とは仁徳天皇の弟から四世孫の彦主人(ヒコヌシ)王と同一人物]と共に尾張へ落ち延びた、弘計王と吾田彦の娘豊媛はそこで成長し二人の間に男大迹王が生まれた、吾田彦は安全な所で養育しようと思い、丁度その時嬰児を亡くした夫婦とかに男大迹王を託し美濃の山奥に避難させた、とある。
  後日天皇系図で調べて見ると以下のようになっている。15代応神・その長男16代仁徳・その長男17代履中・その二人の弟18代反正と19代允恭・允恭の子息20代安康・その弟21代雄略・その息子22代清寧と続いた。この清寧について古事記は「この天皇、皇后なくまた御子も無かりき。天皇崩御した後、天の下治らしめすべき王無かりき。」とあるが、それ以前に、履中天皇の息子で雄略天皇に殺された市邊押盤の二人の子が播磨の国で発見されると、清寧天皇はたいそう驚嘆かつ喜悦して二人を迎えた、ようだ。結論だけ言えばその後、弟の弘計王が23代の顕宗天皇、兄の億計王が24代の仁賢天皇となり、25代がその子武烈である。武烈天皇には男子も女子もなく継嗣が途絶えたが、この応神天皇から武烈までの十一代は、王朝交替説に言う中王朝であり、天皇の宮と御陵が河内に多いこと(仁徳陵古墳・応神陵古墳)から河内王朝とも呼ばれるそうな???。 パンフレットでは23代顕宗天皇(弘計王)と彦主人王の娘(豊媛)の子が男大迹王であり、その彼こそ継体天皇なら王朝断絶でない筈である。[系図を書いてみて下さい、そうしたら分かります。]
ところが、天皇系図では26代の継体天皇は、どうした事か、上述の彦主人王の子になっている。文春新書「謎の大王 継体天皇」(水谷千秋著)では「応神天皇五世孫の継体天皇とは奇妙である。かなり疎遠な傍系王族だし、父親・祖父・曽祖父いずれも天皇でなくやっと五代前の先祖が天皇であったと言うのだ。継体天皇は近江か越前の一地方豪族であって実力によって新しい王朝を奪い取ったのだ、と言う説もある。」とある。継体の出自には論争もあるようだが、淡墨桜の説明板やパンフレットは天皇系図に拠らない創作をしているようである。どうでもいい事かもしれないが、古代史ファンには興味深い事である。