日露戦争開戦100年             

  東洋の小国による戦勝は、清朝打倒を目指す孫文ら中国の革命運動などアジアの覚醒をもたらす一方、満州の権益を手にした日本が大陸へとのめり込む運命の岐路となった、と言われる日露戦争だが、今年開戦100年を迎える。この記念すべき年に、種々の切り口で議論が行なわれるべきだが、戦勝に導いた当時の明治政府首脳の冷静な戦略がまず思い起こされるべきであり、その能力は大正育ちの昭和の指導者のそれに比し格段に高かったように思われる。
1.戦争への背景――日清戦争に勝利し(1895)下関条約で台湾と遼東半島を領有する事になったが、わずか三日後の露・佛・獨三国からの遼東半島放棄勧告に屈服。その後、獨は膠州湾を、露は遼東半島の先端旅順・大連を租借(1898)。これらに反発した民族主義結社義和団に押されて清朝は列強に宣戦(北清事変1900)。講和議定書締結後も露は撤兵せず全満州を事実上占領。露の南下阻止と中国市場防衛の為の英国提案を受け、「日英同盟」を締結(1902)。
2.開戦の動因――露清協定による撤兵期限になっても露は撤兵せず、逆に鴨緑江南岸に進出。奉天開放と露の満州撤兵を要求し交渉するも拒否され、露の旅順艦隊出動を機に、対露国交断絶と軍事行動開始を決定。日露両国はそれぞれ宣戦を布告(1904.2.10)
3.戦争の経緯――1904年2月仁川上陸。5月大連占領。7月旅順攻撃開始。12月203高地占領。1905年3月奉天会戦(最大の陸戦)。5月日本海海戦バルチック艦隊を撃滅)。6月米大統領が日露に講和勧告。9月5日ポーツマス条約調印。占領した樺太さえ北半分放棄、賠償金獲得不成功で国民の不満失望大。日本側戦病死者約9万人。戦死・廃疾者約12万人とも言われる。
4.戦争早期終結への戦略――昨年秋刊行の「日露戦争100年――新しい発見を求めて」(松村正義[日露戦争研究会々長]著、成文社)から、私にとり興味深かった点を以下に列記する。
・限定戦争の戦略:「強大国との戦いを余儀なくされた弱小国として、戦いを地域的・時間的に限定し追って第三国の仲介による講和斡旋が必須の要件」が、明治政府首脳の共通認識。
・米国への金子男爵派遣:伊藤博文侯爵はルーズベルト大統領と親交を深め、米国世論の対日友好化を図るべく、金子男爵を開戦直後に派遣。(金子――1876ハーバード留学、欧米議院制度調査の訪欧の帰途ワシントンにて少壮ルーズベルトに友人の勧めで面会(1891)、それ以来の交際)
・金子の東奔西走:1904.3.26にルーズベルトを訪問し、戦争の原因と現況・日本の戦争目的・黄禍論防止策などにつき歓談し、金子は新渡戸稲造の「Bushido:The Soul of Japan」を贈呈。4.28にはハーバードの講堂で「The Situation in the Far East」と題する二時間十五分の大演説を成功裏に実施。その他にも演説依頼の招待状が重来したが、翌年6月のルーズベルト大統領による講和斡旋までの一年間、同国東部の諸都市で大学や知識人の集会を中心に超人的な活動を続行。
・ルーズベルトへの斡旋依頼:1905年3月満州から帰国の総参謀長の早期講和への強い要請、5月の日本海海戦勝利、講和への国際的機運の高まりを背景に、6月当初構想通り米国大統領に講和斡旋依頼。 樺太全島割譲と賠償金支払いの両要求を放棄しても講和を成立させよ、との悲痛な訓令を出すまでに日本は追い詰められていたが、ルーズベルトのニコライ二世説得で、南樺太だけは獲得。講和は「日露のみならず私にとっても幸運」、はルーズベルトの言。(翌年ノーベル平和賞受賞)