司馬遼太郎記念館                  

  「3ヶ月で来館者3万人突破」という一年前の切り抜き新聞記事にある所在地(東大阪市)を頼りに、一昨年の11月にオープンした司馬遼太郎記念館を訪ねました。未亡人が居られる自宅の書斎は、未刊に終わった「街道をゆく:濃尾参州記」の執筆中の状態のままで、庭からガラス戸越しに見える。まっ黄色に咲いたナノハナの庭を進むと、安藤忠雄設計の、ガラスの回廊の記念館である。その中心は吹き抜けの高さ11mの凹壁面に3400ほどの書棚が張り付く大書架であり、2万冊の書籍がびっしり収納されていて圧倒されますし、自宅の方にも自著本を含めて4万冊が玄関・廊下・書斎・書庫に溢れているとかで驚嘆してしまいます。大書架の隣に150席の小ホールがあり、時に講演会が開かれるようですが、この日は、生涯を辿るビデオ「時空の旅人」が上演されていました。
  図書館で調べてみますと、司馬遼太郎大正12年大阪市浪速区で薬剤師の父の次男・福田定一として生まれ、幼少年期は葛城山麓で養育された、中学3年ぐらいから市立図書館に通い始め20歳で読む本が無くなってしまう、昭和16年に現在の大阪外大蒙古科に入学、昭和19年満州に渡り陸軍戦車学校を経て牡丹江の連隊に赴任、翌年帰国し終戦を迎える、昭和23年に産業経済新聞入社とある。司馬遼太郎全作品大事典(別冊歴史読本1998)によると、処女作は「ペルシャの幻術師」だが、長編小説としては「梟の城」(昭和33年・35歳)を皮切りに、韃靼疾風録(昭和62年・64歳)まで38編、短編は「故郷忘じがたく候」(昭和43年・45歳)など108編になる、という。紀行文として有名な「街道をゆく」は、第1巻が「甲州街道・長州路ほか」、最後の第43巻が先述の「濃尾参州記」である。
  わが書棚の司馬書を年代順に並べてみると、国盗物語・坂の上の雲花神燃えよ剣・関が原・空海の風景播磨灘物語・故郷忘じがたく候・長安から北京へ・風塵抄・草原の記・この国のかたち・日本とは何かということ・台湾紀行そして当日現地で記念に購入した濃尾参州記の15冊となった。殆ど内容を忘れてしまったが、積ん読も多かった筈。
半藤一利氏が「司馬さんと昭和史」という短文の中で「「坂の上の雲」という小説はすばらしい小説なのですが、ちょっとよく書き過ぎている、日露戦争後の明治というのは実は大変に悪い国になってしまったと思うのですが、その悪くなった明治を書かないと、この小説は完結しない、と私はよく司馬さんと議論した。昭和だけが急に悪くなったというのが司馬さんの「非連続の昭和の前期国家」なのだが、私はそうじゃないと思う。歴史は連関しているものですから」と述べています。半藤氏は昭和天皇の責任をどう考えるか、と言う点などを頭においているのだが、司馬さんは「はるか昔に書いたものをもういっぺん書けと言われても無理だ」と言っていたそうです。しかし半藤氏は続けて「国家というのは突き詰めれば山川草木の事だ、それに依存して暮らす人々やその暮らしの総和だ、と言うのが司馬さんの晩年の国家観でした。バブル経済の中で、荒廃した日本を心配して何とかしなくては、と言うのが司馬さんの最後の言葉でした」と半藤氏は書いています。