Weehawkenの慰霊碑に思う               

5月23日(日)、前日泊まったニューヨークミッドタウンのKITANOHotelを朝9時に知人の運転で出発して、今までは中々行けなかった郊外を回るつもりでまずニュージャージーへ。リンカーントンネルを通ってハドソン河沿いを行くと高台の閑静な住宅街となり、小さな公園のある道路わきに駐車する。南東の方角にハドソン河を挟んでマンハッタンの高層ビルが見えるが、残念な事に逆光に霞んで薄墨絵のようだ。しばらく散歩しながらたまたま気づいたのが掲題の慰霊碑である。写真のように銃を保持する兵士二人が守る塔とその近くに並ぶ二つの碑で、一つは第二次世界大戦の際のもの、もう一つは朝鮮戦争ベトナム戦争のものだ。後者の石碑には「FROM THE PEAPLE OF WEEHAWKEN TO THOSE WHO GAVE THEIR LIVES FOR FREEDOM : 1950KOREA1954 1958VIETNAM1975」とあって戦死者の氏名が刻まれているが、自由を守る為出征し心ならずも戦禍に倒れた隣人への町の人々の敬意と感謝を表わしている。(帰国後Road Atlasで調べてみるとWeehawkenとはEmpire St.Bldgのあたりの丁度対岸にあるニュージャージーの小さな町である) この種の慰霊塔・慰霊碑は珍しい事ではなく、この国ではごく一般的な事のようであり、アメリカ国家を一人一人が、一つ一つの市町村が守るという意気込みをあらためて感じた。
日本ではどうかと言えば、何年か前に兵庫県氷上町のある神社で、町からの出征兵士の名を木壁に書き連ねた、戦争は戊辰戦争だったか何であったか記憶が不明瞭だが、全く同じような記録を見た事がある。いずれにしても大昔の戦であり、昨今はこの種の話ははやらないが、先日の読売新聞によると、「日露戦争百周年を迎え、日本を窮地から救った英雄達を思い出すいい機会、といった趣旨の読者からの投書がいくつも寄せられている」という。日露戦争が国の存亡を賭けた祖国防衛戦争だったとするのは至極当たり前なのだが、現在の多くの歴史教科書はこれを「侵略戦争」と切り捨てる。北岡伸一教授ら国際政治学者は「近現代史学会は左翼イデオロギーやいわゆる戦後民主主義思想が強いからだ」と言う。 帝国主義にせよ、侵略戦争にせよ1930年代以降長らく共産主義陣営が自由主義諸国を非難する際に使って来た用語との事であり、耐用年数の切れた用語に早く見切りをつけて占領政策の呪縛を解き、当時の常識で先人の功績をしのびたいものである。