ポーツマス会議の人々                    

  今年は日露戦争開戦100年と言う事で、新聞雑誌に紹介される回顧記事が多くなって来たが、私も昨年秋刊行の「日露戦争100年――新しい発見を求めて」(松村正義著、成文社)を参考に、開戦直後に金子男爵を米国に派遣して対日友好ムードの醸成を図り、米国による将来の講和斡旋を根回しするなど、当時の首脳は冷静な戦略を持って戦争を開始した事につき以前短文にまとめた事がある。その後開戦年1904年の2月11日の朝日新聞天声人語をひょんな機会があって調べて見ると「愉快極まる今日の紀元節、実に紀元節以来の紀元節だ、この時に当っていやしくも生を我国に受く我輩は実に快極まって泣かんとするのである、帝国万歳・・・だ」という出だしで、仁川沖で捕獲した露艦二隻の事を報じている。政府の冷静さに比し何と軽薄な事、こちらは現在のメディアと同じかと苦笑。
  最近図書館で「ポーツマス会議の人々」(2002 原書房)と言う、当時の写真がふんだんに盛り込まれた本を見つけ大変興味深く読んだが、それは、ポーツマスの出版者ランデル氏が1985年に条約締結八十周年記念出版物として「There Are No Victors  Here!」の題名で刊行したものの翻訳であった。第一章の要約は「日露両国間の戦争は勢力圏を獲得する争いに端を発するものであった。その直接の原因はこれら二国家が朝鮮及び満州に対する利害関係について合意出来なかった事にある。日本が存立の為に必要と信じられていた方針と、太平洋に向かって氷河のように前進するロシアとの必然的な大衝突であった」となっている。第二章では「二人以上の人間が妥協しあう原則に基づいて交渉する場合はいつでも、交渉者の個人的性格が重要な要素となる」とあって、我らが小村寿太郎については「小男で弱々しく少年のように歩を進めたが、大きなスケールと深遠な思考の持ち主であり、かつ感情を外に表わさない卓越した外交官」と書かれている。第四章「講和交渉」では「論議は通常、まず小村があらかじめ英語で非常に慎重に作成し、法的文書として全く正確な声明書をテーブル上に提出する。各文書にはフランス語訳が付けられており・・・・小村は全ての点に対して備えており、相手の言う事のどれにも答える支度が出来ていた・・・・」などの記述がある。
  最終的に締結された講和の内容については、ロシアは「戦争継続派と独裁政府が、日本の賠償要求取下げだけでは満足しなかった」し、日本では、賠償金が支払われず、樺太の半分を放棄すると知らされた時、「暴動が起きた」次第だったが、日本にとってこれ以上戦争を続けられなかったのは歴史的事実だし、絶妙なタイミングだったのは言う迄もない。
  さてポーツマス講和条約記念祭典委員会(学校・教会・海軍工廠・商社・商工会議所など)は2005年に条約調印百周年記念祭を計画していると言う。条約調印は9月5日だから、多分その前後かと想像するが、ニューヨークからボストン迄300km、ボストンからポーツマス迄北へ約70kmの近さであり、大勢の日本人が参加し、往時の小村寿太郎以下全権団の堂々たる交渉をしのぶのはどうだろうか。もちろん、小村寿太郎から学ばなくてはならないのはまず現代の政治家・官僚であるのは言うを待たない。