樺太は日本固有の領土?                     

 「日露領土紛争の根源」というユニークな書(長瀬隆著、草思社、2003年)によると、「樺太の南半分は日露戦争の勝利でロシアから獲得したものの、第二次世界大戦の結果ソ連に返還された」事になっているが、そうではなくそれは本来日本領土だったというのだ。まず話はシーボルトの著書「日本」から始まる。ドイツ人シーボルトは1823年長崎出島に上陸し鳴滝塾を作って病気治療や医学教育を行なう一方で、動植物の採集・測量・観測を行なったが、1829年の帰国に際し数多くの資料・標本・生植物を持ち帰り、大著「日本」(全20冊)を1832から51年にかけて刊行した。その中で何よりも伝えたかったのは「ヨーロッパで半島と見なされていたサハリンは実は島であり、その発見者は間宮林蔵で、彼によってその地域の精確な地図が1809〜10年に作成されている」という事であり、最初の分冊では「日本邊界略図」を畳紙として入れただけだったが、1851年の最後の分冊では詳細な最上徳内間宮林蔵作成の地図が公表された。ぺテルブルグに行ったシーボルトは当時北東アジア・北太平洋水域調査の第一人者だったクルゼンシテールンにこの地図を見せたところ、一目見て「これは日本人の勝ちだ」と叫んだという。しかし、このような情報は残念ながらロシアでは無視され、「日本」の露訳本(実は公刊されず、現存する露訳本の表紙裏には「検閲委員会に法定部数を提出せんが為に本印刷は許可された」とある)では、間宮林蔵を始めとする日本人の業績が完全に・全面的に削除抹殺されているという。1931年樺太生まれの著者は「日本」の露訳本が神奈川大学図書館に現存する事を2001年に知り、この驚くべき諸事実を発見確認したそうだが、2003年にサンクトぺテルブルグのロシア国立図書館でもこれと寸分変わらぬ露訳「日本」を閲覧したという。「一体どうしてこんな事になったのかその理由は簡単だ。サハリンをロシア領とするのに都合の悪いこの露訳本の出版を宰相ネッセリローデが差し止めたのだ。」というのが著者の叫びであり怒りである。
 更に著者はチェーホフの膨大な報告記「サハリン島」(1895年)を引き合いに出している。1860年生まれのチェーホフは30歳の時単身シベリアを横断してサハリン島に旅行しているが、乗船したバイカル号が使用していた海図には「樺太の最北端迄日本領」になっていたとあり、活字の小さい‘注’ではあるが、「サハリンの処女探検の権利は疑いも無く日本人に属し、日本人が最初に南サハリンを領有したのである」と記されている、とある。
 さて扶桑社の新しい歴史教科書の‘北方の領土確定’によれば、「樺太は幕末以来日本とロシアに両属する雑居地とされ、所属が不明確であった。日本はこれまでの北蝦夷地という名称を樺太と改称して1870(明治3)年樺太開拓使を設置したが、当時樺太在住の日本人とロシア人の間では紛争が度々起こったし、朝鮮や沖縄の問題が新たに迫って来たので、新政府はロシアとの衝突を避ける為、1875年ロシアと樺太・千島交換条約を結んだ。」とある。樺太が日本固有の領土か否か、俄かには言えなかろうが、少なくとも北方四島返還については、歴史を正しく振り返った上で毅然として交渉して行かなくてはならない。