日本の戦後は終わっていない              

 上坂冬子氏の「北方領土に本籍を移して」と題する講演を聴いた後「北方領土上陸記」(文芸春秋 2003)なる著書を読んだ。ワシントンタイムス記者・戸丸広安氏の「知られざる北方領土秘史」も併せて、北方四島に関する私見を纏めてみる。四島のソ連不当占拠をいち早く指摘し、ソ連から取り返して沖縄と同じ扱いにするよう、戦後日本人として誰よりも早くマ司令官に訴えたのは、時の根室町長・安藤石典であったが、もちろんサンフランシスコ講和会議において吉田全権大使も「日本開国の当時、千島南部の択捉と国後両島が日本領である事に、帝政ロシアも何ら異議を差し挟まなかった。(中略)千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後一方的にソ連領に収容された・・・・」と釘をさした。しかしその後60年になるというのに殆ど進展がないのは真に遺憾。歴史的経緯を言えば、(1) 1644年松前藩から幕府に「正保御国地図」が献上されたが、これには根室納沙布岬の東方に39の島々が描かれていて、その内34には、くなしり・えとろふ、など現在と同じ島名が記入されている。(2) その後100年程経ってから松前藩国後島に常設の交易拠点を開設し、19世紀の始めには既に択捉島を含む四島を実質的に支配していた。(3) 1855年下田で締結した日露通好条約第二条で、両国の国境を択捉島とウルップ島の間に置く、と合意された。(4) 領有権が不明確で紛争の絶えなかった樺太を譲る代わりに、ウルップ島以北の全千島列島を日本領土とする樺太千島交換条約が1875(明治8)年ぺテルブルグで締結された。(5) その後日露戦争後の講和会議で南樺太の日本領有が決まったりの変化があったが、千島列島、少なくとも北方四島は、歴史的にも国際法的にも日本領土である。
 ソ連もこの事は分かっていて、領土問題を論ずる時に引き合いに出すのはヤルタ協定である。スターリンルーズベルトチャーチルが1945年2月ソ連クリミヤ半島のヤルタに集まって合意されたこの協定には「樺太の南部のソ連への返還」と「千島列島のソ連への引渡し」が記されている。ソ連は何としても北方領土を手に入れて領土の拡張を図りたかったし、一方米国は連合国側の犠牲を最小限に抑えながら早急に戦争を終わらせるべく、ソ連を対日参戦させたかったのだ。それにしても、ル大統領はとんでもなく軽率な事をしてくれたと、我々は恨まずにはいられないが、ヤルタ秘密協定自身が「カイロ宣言ポツダム宣言」の精神に反している事は明らかであって、その不当性が国際的に認められれば、ソ連の居座りは不可能になるという見方もある。米国国務省は1985年ヤルタ会談開催40周年にあたって、同会談の内容とその分析を記した内部文書の要約を公表し、米国は今もソ連北方領土占領を承認しておらず、日本の北方四島返還運動を全面的に支持して行く事を確認しているとも言われるが、現在余り大きくは取り上げられてないような気もする。
 そこでこれからの我国の作戦だが、ヤルタ秘密協定の不当性を改めて米国自らに同意してもらって、ソ連の唯一の論拠を崩し、米国政府から四島返還の積極的支持を得るというのが最善策ではないか。もちろん、日本国民の総意の結集が在っての上の事ではあるが。