信州・小布施「北斎館」               

上信越自動車道の長野ICから北へ二つ目の信州中野ICで降りて、約十五分、千曲川東側の小布施町に小布施堂界隈という一角があり、そこに「北斎館」がある。栗菓子の小布施堂が界隈の中心にあるのだが、この地は古くから栗の郷、一説によれば城主が今から六百年前に旧居城の丹波国より栗苗を取り寄せて植林したとの事である。幕末の高井家(現小布施堂)主人は十二代の高井鴻山で、若くして京都に、後年江戸に旅立ち、儒学陽明学・仏教・蘭学と知の欲するままに遊学、佐久間象山勝海舟らと親交を結んだ。家業を継いだ後は、赤穂の塩・菜種油・綿生糸商品を商い、小布施豪商の一人であったが、日本の行く末を憂い巨万の財力を惜しみなく使って、幕末の変革に関わったという。界隈中心には「高井鴻山記念館」があり、鴻山を訪れる幕末の志士や多くの文人墨客が語り合った翛然楼、鴻山揮毫の幟旗(のぼり)・書画・印章を展示している文庫蔵などが保存されている。
北斎館」の方だが、1976年の開館で、北斎筆の天井絵を備える二基の祭屋台(長野県宝)の他、和風の展示空間に掛軸・額装・画帖・絵巻などの北斎肉筆画や画稿・書簡などの資料が適宜展示されており、柳下傘持美人・桔梗・白拍子・冨士越龍など北斎肉筆画(版画でなく一筆一筆に精魂を込めて自らの筆で描いた直筆画)の秀作が見事である。 北斎を調べてみると[江戸中期から後期にかけての浮世絵師。14・5歳で木板版下彫りを学び、1778年(18歳)に当時役者絵の大家としての勝川春章に入門して、本格的にこの世界に入った。1798年には北斎と号して独立独歩の作画活動を始め、読本挿絵の分野に多くの名作を残したが、1814年頃からは絵の教則本とも言える絵手本(有名なのは北斎漫画)に傾注した。1856年、フランスの画家ブラックモンが日本から送られて来た陶器の包み紙に使われていた「北斎漫画」の紙片を発見し、マネ・ドガら友人達に見せて回り、これが印象派誕生の発端になったというエピソードは有名。1834年(74歳)頃を境に肉筆画が中心となるが、七十年にも及ぶ作画生活は終生刻苦勉学に貫かれていた。1849年90歳をもって没。]となる。
さて、鴻山江戸遊学時代に交流のあった画家・葛飾北斎が、鴻山を訪ねて小布施へやって来たのは1842年の秋。80歳を越えた老画家が、はるばる小布施を訪れた理由には諸説あるが、天保の改革の過激な取締りを避け、北斎芸術の良き理解者であり、経済的な支援者としても頼もしい鴻山のもとへ身を寄せたと考えるのが妥当と言われている。北斎はその後再三にわたって来訪し、鴻山が提供した碧漪軒(へきいけん―青いさざなみ)をアトリエに、数々の肉筆画の傑作や鴻山との合作を残した。鴻山は北斎を師と仰いで尊敬し、北斎は鴻山を旦那様と呼ぶ、折り目ある交流が続いたと伝えられている。以上見学時の小冊子を要約。