後醍醐天皇と船上山(センジョウサン)

 
 朝日ビジュアルシリーズ(花の百名山)の最近号は「大山・船上山・氷ノ山・比婆山」だが、その中で初めての船上山に足のトレーニングを兼ねて行ってみる事にする。ちょっと遠いので金曜の夕刻出発し、中国自動車道の落合ICから米子自動車道に入り蒜山(ヒルゼン)SA迄来て、ワゴン車内で仮眠(トヨタアスリートなので二人でも結構熟睡出来る)する。 翌朝は溝口ICから一般道を東行して大山の北側にある船上山(標高616m)の東坂登山口(標高410m)に8:00到着。一万数千年前に溶岩の隆起で大山が出現したがその時の溶岩流の最北端に出来たのがこの山で、山頂直下に高さ40m南北1kmに亘って屏風岩の大岩壁が続き、ロッククライミングで有名。この日も本格的装備のグループが挑戦しているようだった。屏風岩の下を水平に通る横手道をしばらく行くと「正面登山道(健脚向)」の標識があり、屏風岩の切れ目のような所の浮石(不安定な状態で積み重なっている岩石)の多い急坂を標高差約150m直登すると薄ヶ原と呼ばれるほぼ平坦な山頂台地に着く。直ぐ側に船上山行宮(天皇行幸の際設営された仮の宮)碑があり、反対方向のよく整備された広い尾根道を行くと僧坊跡・後醍醐天皇行宮跡の標識があり、一番奥は現存する船上神社でその脇に大杉がある(添付)。案内説明に「平安時代の初期から山岳仏教が栄え、大山・三徳山と共にこの船上山は伯耆(鳥取)三嶺と呼ばれ修験道霊場だった。又元弘の乱により隠岐へ流された後醍醐天皇が1333年脱出し、名和長年に助けられ船上山合戦に勝利し、建武新政の礎となった歴史の山である」とある。この船上神社から南方の大山へ向かって山道が続き、そこは素晴らしいブナ林ですと、すれ違った家族づれに聞いたのだが、今回は安来市にある足立美術館に寄って帰阪するつもりなので、船上神社を最後に下山する。帰宅後、後醍醐天皇を調べてみると以下のようになる。
 [1192年に成立した鎌倉幕府の支配がそろそろ揺らぎ始め、1318年に即位した後醍醐天皇天皇親政の政治を行なう為倒幕を計画したが、計画がもれて二度も失敗し(正中の変・元弘の変)天皇は捕えられて1332年隠岐に流された。しかし護良(モリヨシ)親王楠木正成らは新興武士を結集してねばり強く戦い、幕府御家人の脱落もあって足利尊氏新田義貞が幕府に背き、1333年鎌倉幕府は滅亡した。 それに先立ち一年弱の配流の後天皇隠岐を脱出し、名和長年らの支持を得て京都に戻り、幕府の擁立していた光厳天皇(北朝第一代)を廃して、建武新政を開始した。しかし、公家を重んじた急激な改革で武家の不満が高まり、今度は自分が足利尊氏に裏切られて1336年末吉野に逃れ、孤立が深まる中1339年義良親王(後村上天皇)に譲位、同年52歳で死去した。]
 改めて地図を見ると、船上山の所に「名和長年鎌倉幕府と一戦した」とあり、2月に隠岐脱出・6月京都帰還なので、山上の行宮に居たのは僅か2,3ヶ月かと想像される。 こんな風に大昔の授業を思い出しながら日本史の一節を復習してみると、近現代史もいいが中世も中々面白い。この間大阪府弥生文化博物館の「大和王権と渡来人」展に行ったがこの時も新しい発掘展示があったし、日本歴史の2000年はどこを取って調べても興味津津という事になろうか。やはり偉大な文明なんだ。