台湾の近代化に尽くした八田與一            

 昭和初期、サトウキビさえ育たない荒野だった台湾南部を、大規模なダムと灌漑用水路の10年がかりの建設によって、台湾最大の穀倉地帯に変えた日本人、金沢市出身東京帝大土木科卒・台湾総督府土木技師「八田與一」を皆さんは今や十分にご存知でしょうね? 昭和34年、邱永漢氏が「台湾の恩人・八田技師」という詳細な記事を文芸春秋に書いたのが最初と言われるが、その後、元高雄日本人学校教師の古川勝三氏が帰国後平成元年に「台湾を愛した日本人」を出版しており、平成9年には台湾の教科書「認識台湾」にも與一が取り上げられた。平成14年李登輝前総統は慶応大学三田祭で與一の業績を中心に「日本人の精神」と題した講演を行なう予定だったし、平成16年には産経新聞で「凛として・台湾の恩人八田與一」が9日に渡って連載された。
 烏山頭のダム堰堤工事はセミハイドロリックフィル工法で高さ56m・長さ1273m(下写真)に及び、米国からスチームショベルを輸入して行なわれたが、烏山嶺という山の向こう側にある水量豊富な本流をダムに引き込む為に、日本にも無かった直径9mのトンネルの掘削も併せて行なわれたし、更に、集めた水を嘉南平野に導く為の、千二百分の一の勾配の幹線・支線・分線合計16万kmの水路の建設など、世界に例を見ない規模の巨大工事であって「のるかそるかの大ばくちみたいなもんさ」と與一はうそぶいていたそうだ。昭和5年3月完成した烏山頭水庫は貯水量1.5億トン(因みに黒部ダムは2億トン)の水が山肌を縫うように入り込んで出来た人造湖(珊瑚潭)であり、通水式では毎秒70トンを噴出させ、流水は二日掛かりで台南の海岸に到達したという。台湾全耕地の五分の一に当り、50万人の農民が働く15万ha.の農地の潅漑用水路の完成であった。
 台北総督府に帰任するに当り職員らの交友会によって、金沢市の彫刻家の手になる與一の銅像が、昭和6年ダム北側の小さな丘に置かれた。金属供出の為一時行方不明になったが、実はダム管理事務所に密かに保管され、紆余曲折の後昭和56年元日に、像は元の場所に戻り再び烏山頭に注ぐ陽光を浴びており、今でも毎年欠かさず與一の命日(5月8日)には、嘉南農田水利会により追悼式が行なわれている。台湾の著名なTV番組制作者が今年、台湾近代化を促進した與一をテーマに連続ドラマを作るという。大変嬉しい事だが、我が国の無関心さは一体どうした事なのか。