経済成長神話からの脱却                    

 GDPの対前年伸び率が1%では低く、不良債権処理の目途が立つ迄はやむを得ないが、我が国としては3%が必要だとか言われる度に、そしてその為には消費の拡大がポイントだと言われる度に、これ以上何を買えって言うのだと違和感を覚えずには居られず、もっと観光・スポーツ・芸術・ボランティアなどなどに時間と金を使えばいいのにと思っていたのだが、それに近い主張の新刊書が出た。オーストラリアの政治経済学者ハミルトンの掲題(原題名GROWTH FETISH)の著書である。まず特徴的な表現を抜書きしつつ、論旨を再構成してみる。
 今や豊かな国において経済問題は既に解決しているにも拘わらず、人々は更なる満足を求めて経済成長に夢中になり、かえって豊富さに溺れてしまって居て、消費の自由を得た代わりに世界の中に自分の居場所を見つける自由を失い、多くの人々が孤独・退屈・抑鬱・疎外・自己に対する疑念に苛まれているのが現状だ。所得は幸福を保証してくれない事を知り、そんな現状から脱却してスローライフへのシフトダウンを目指す人々が増えて来ている。すなわち、過剰消費でなく子供達と長い時間を過ごしつつ、もっと意味のある仕事をし心の奥にある価値観と合致した日々を送るとか、賃金の減少を覚悟で労働時間を減らし、物質的なものを追いかける生活から身を引いてもっと得るものの大きい人生を生きるとか、消費市場主義や利己主義や自然破壊の泥沼から脱却して家族の親密さや友情そして個人的・社会的責任感といった価値観に基づいた生活を送る、などというのが著者の言う「ポスト経済成長時代」のイメージだ。
 GDPに代わる指標としての「真の進歩指標(GPI)」では、失業の財政コストを推計したり、木材を伐採した場合の環境コストを加味したりするわけだが、過去20年を見てみるとGDPは上昇し続けているものの、GPIは下降しているという。GPI主導の社会では、消費と賃労働を重視する考え方が後退して市場向けの商品やサービスの生産は廃れ、逆に家事労働・自己啓発活動が重視され、文化的・教育的・地域共同体的な仕事と意味のあるレジャーに参加するなど、それ自体に価値のある活動が盛んになる。大学の講座の有効性は卒業生がどれだけ金を稼ぐ能力を身に付けたかではなく、深い洞察力を身に付けた一人前の人間をどれだけ育てたかで評価される。人々の幸福の増進に全く役に立っていなかった多くの経済活動、例えば金融サービス産業の大部分、もっぱら贅沢品を生産する産業は衰退する。このように言ったからとて原始的なライフスタイルに戻るという事ではない。せっかく人類が作り上げた巨大な生産力を利用して環境を護る新たな手段を開発し、同時に共同体で豊かな生活を送りながら、もっと軽やかに地上を歩くのだ。
「富の蓄積はもはや国家の進歩の源泉ではない」と、幸福主義は資本の権力を無視するよう国民に呼び掛けるわけだが、これはモノが潤沢にある民主主義社会なら賛同を得られる筈だ。成長が無ければ資本主義は崩壊するという反論に対しては、日本は今ゼロ成長に近いがそんな事にはなってないと答えられる。成長が無くては失業者が増えるとの反論に対しても、「職の無い経済成長」の事例はいくらでもあるし、エコロジーを考慮した税制改革などを含む政策でいくらでも対応可能と、そして世の中が「無駄飯食い」ばかりにならないか?に対しては、収入が減っても別な生き方をしようと心に決めた人は大勢居ると答えればいい。ポスト経済成長社会においては成功の判定基準は様々で、重視されるのは個人個人の内面的な可能性とか創造性とか社会への貢献といったものになる。金銭への執着でなく人間としての満足と自己実現の機会を人々は目指す事になるのだ。人間のサガは容易には変わらないと思いながらも、一方で過剰消費・環境破壊・長時間労働少子化が懸念される中、人の生き方の意味を考えさせる機会を与える一書ではある。