松代大本営象山地下壕                       

 真田藩十万石の城下町「松代」は上信越自動車道「長野IC」の南に位置し、信州松代観光ガイドによればここの目玉は三つ、?真田邸・真田宝物観など、?佐久間象山の生地にある象山神社・象山記念館、?長野高校出身の国際アーティスト故池田満寿夫の美術館、のようであるが、今回我々は、標高477mの小山「象山(ゾウザン)」の地下に碁盤目のようにくり貫かれた「象山地下壕」の見学に出掛けた。入口にある案内板によると、東西20本の壕が本坑でそれぞれ20m間隔に掘られており、これらを南北4~5本の連絡坑がつないで碁盤目状になっていて、総延長は5.9km、トンネルの大きさは幅4m中央高さ2.7mとある。備え付けのヘルメットを被って入壕すると所々に照明用の電灯があり、削岩機で開けた穴にダイナマイトを挿入して破砕した岩肌が当時の状態のまま残されている。公開されている約500mの終点迄行って引き返し、改めて長野市観光課発行のパンフレットを熟読する。
 『この松代象山地下壕は、軍部が本土決戦最後の拠点として第二次世界大戦の末期に、極秘の内に大本営・政府各省庁・皇居などを松代に移す、という計画の下に構築された。着工は昭和19年11月11日、翌20年8月15日の終戦の日迄約9ヶ月の間、住民及び朝鮮人が動員され3交替徹夜で工事が進められた。』とある。防衛庁には「松代倉庫新設工事設計圖、圖面紙数表紙共参拾参葉 東部軍管区経理部」という表紙の当時の設計図が保存されているようで、イ号(象山)・ロ号(舞鶴山)・ハ号(皆神山)の三ヶ所で掘削が行なわれたとある。今壕から出て来たイ号地区には陸軍省海軍省など政府機関が入り、更に日本放送協会と中央電話局を移す予定だったそうだ。
そこから南東へ2kmの所にあるロ号地区へ行って見ると、舞鶴山の地下に総延長2.6kmで同様の碁盤目状地下壕が残っているが、ここは非公開となっているので壕の入口を通過して先に進むと、コンクリート1~2階建のかなり長い建物が山裾に三棟並んでいる。1号庁舎は天皇関係、2号は皇后関係、3号は宮内庁関係に充てられる計画だったが、更にその先の皆神山の地下壕は総延長1.9kmで食料倉庫用だったそうだ。長野電鉄河東線に沿って、このような地下壕以外に松代大本営関係施設として送信施設・受信施設・印刷局・皇太子皇太后施設・仮皇居などを着工したとか計画中であったとか伝えられている。このロ号地区の地下壕には現在「石英管式伸縮計」「水管傾斜計」などの精密地震観測機器が設置されており、2号庁舎は精密地震観測室と松代地震センターとして活用されている。地下壕を利用した、これら気象庁の機関は昭和22年に創設されたが、その後最新観測機器の導入により、世界的にも有数の地震観測・研究施設となっていて、1998年のインドの地下核実験や最近ではスマトラ沖地震の震動観測について重要な役割を果たしているようだ。
それはさておき、イ号地区の地下壕は戦後長い間忘れ去られていたのだが、長野市によって整備された後平成元年から公開され、最近では年間見学者数が十数万人になるようだ。この日も何組かの高校生が先生引率のもと来ており、ボランティアの人々の説明を神妙に聞いているようだった。日露戦争の際には開戦と同時に米国の仲介による講和を考え、早くからルーズベルトに接触したわけだが、大東亜戦争の場合本土決戦に備えてこのような膨大な工事が進んでいたとは狂気の沙汰であり、歴史観・大局観の全く無い軍人支配の当時が改めて想起され、誠に残念至極やり切れない思いである。