関東軍将兵のシベリア抑留                

 大阪駅近くのジュンク堂書店の現代史コーナーに久し振りに行ってみて、めずらしい新刊書を見つけた。著者はロシア科学アカデミー東洋学研究所日本問題上級研究員・カタソノワ女史、ロシアで2003年に出版され日本では2004年10月に刊行された『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたか――副題:米ソ超大国のパワーゲームによる悲劇』である。ゴルバチョフがペレストロイカ(改革)を始めてから約20年が経ち、既に1993年10月、ロシアは最終的に、スターリン体制下で非人間的な態度で日本人を扱った事を認め、エリツィン前大統領は、日本への公式訪問時にロシア民族の名で、日本社会に謝罪を行なっているのだが、女史はロシア外務省外交公文書館・ロシア連邦国立公文書館・ロシア連邦国防省中央公文書館などで埃をかぶって眠っていた資料に丹念に目を通して、学術的価値の高い本書を執筆し、改めてスターリン体制のソ連をヒューマニズムの立場から告発している。ただ、ソ連の非道ぶりのみを非難して、日本が被害者面をするのは公平を欠き、謙虚に歴史の見直しをする必要があると監訳者白井氏は述べている。
 まず、関連ある歴史事項をまとめてみる。(1) 1945.2.4〜11 ヤルタ会談「ルーズベルトは、南樺太のリターン・千島の引渡(ハンドオーバー)を見返り(密約)に、スターリンに対し改めて対日参戦を要請」。 (2) 4.5 ソ連、日ソ中立条約の不延長を対日通告(失効は翌年の4.25)。 (3) 4.12 ルーズベルト急死、トルーマン副大統領が後継大統領就任。 (4) 5.7 独軍無条件降伏。 (5) 7.17 ポツダム会談「トルーマン、ソ連の対日参戦を懇請」。 (6) 7.26 ポツダム宣言発表。 (7) 8.6/8.9 広島・長崎に原爆投下。 (8) 8.9 ソ連、対日参戦(満州に侵攻、64万人を捕虜に)。 (9) 8.10 日本政府、ポツダム宣言受託通告。 (10) 8.15 戦争終結詔書をラジオ放送。 (11) 8.16 スターリン、トルーマンに「北海道北半分の占領を要求する秘密書簡を送付」。 (12) 8.18トルーマン「千島全島をソ連軍が占領すべき地域とする事に賛成するも、北海道は断固拒否」。 (13) 8.23 スターリン「日本軍捕虜将兵50万人のシベリア移送を指示」。 (14) 8.29〜9.3 ソ連軍、いわゆる北方四島を占領。 (15) 8.30 マッカーサー、厚木に到着。 
 さて、日本軍捕虜のシベリア強制労働の背景だが、ポツダム宣言の精神に沿って帰国させる予定であったものの、米ソによる日本の「分割占領」の約束が反共主義者トルーマンにより反古にされて、怒り心頭に発したスターリンが方針を転換した、というのが主な理由である。 前述のようなヤルタ密約は驚くべき事にルーズベルトの個人外交であって、国務省は組織として無視され何も知らなかったそうであり、ルーズベルトが亡くなってから統合参謀本部議長が、預かっていた協定文書を新大統領に提出し、トルーマン始め政府要人は驚愕する。この戦争へのソ連の突入を駆り立てて来た米国は、1945年春から夏にかけて、ソ連が参戦しないように一生懸命努力し、また、ソ連が行動を起こす前に日本を降伏させようとして、あらゆる可能性を試みたのだった(原爆投下もその一つとカタソノワ女史は書く)。もちろんそれは、戦後の平和構築に当って極東での調整問題へのソ連の介入を排除すべきと、ドイツの失敗例を勘案して、米国が気づいたからであったと言われている。 シベリア抑留者には大変気の毒ではあったが、その犠牲によって「日本の分割占領」が避けられたようであり、超大国のすさまじいパワーゲームの展開を改めて思い起こしたのであった。