明石元次郎                     

 書店の新刊コーナーで「明石元次郎」を見つけた。野村敏雄著・ PHP文庫最新刊・日露戦争100年・日露戦争を勝利に導いた「奇略の参謀」とあり、裏表紙に「参謀・明石元次郎の活躍がなければ、対露戦争に日本は敗れていた!? 遠き欧州の地でロシアの後方を撹乱する密命を帯びた彼は、最初は小さかった炎を、一人また一人と同志を増やし煽って行く。それはやがてロシア革命へと燃え広がって行った。日露戦争の表舞台には現れる事の無かった活躍を中心に明石元次郎の波瀾に満ちた人生を描く長編力作。文庫書き下ろし」とある。明治37年2月4日の御前会議で日本はロシアとの国交断絶を決定し、直ちに種々の手を打つのだが、その一つが「反ツァーリの革命勢力を扇動し、撹乱を謀るように」との、参謀本部次長児玉源太郎による公使館付武官明石大佐に対する特命であった。要約は大変と思っていたら、インターネットで「明石元次郎〜帝政ロシアからの解放者」が見つかり、同書要旨にぴったりなので拝借したが、以下の通りである。
(1) 国交断絶後、明石を含むペテルブルグの日本公使館員は北欧の反露活動の中心地ストックホルムに移るのだが、「日本の勝利を祈る」と、そこでの民衆の歓迎は異常な程だった。
(2) ロシアの属国のような状態から脱却せんとして反露活動を計画しているフィンランド憲法
党首カストレン・フィンランド革命党党首シリヤスクを訪ね、資金援助を申し出る。
(3) 明石はポーランドルーマニア・トルコについても同様な工作をして行く。そして、1904年10月1日から5日間パリで、多くの党の幹部が集まって反露活動の連合会議が開かれた。
(4) ロシア全土も騒然として来て、数万の労働者が待遇改善を求めて宮殿に向かう。コザックの部隊長が群集の中に斬り込み、数百人の死傷者が出て「血の日曜日」(1905.1)となった。
(5) 4月下旬、反ロシア帝政勢力の第二回大会がジュネーブで開かれ、ロマノフ王朝の抹殺・フィンランドポーランドの独立などを発表し世界的なセンセーションを巻き起こした。
(6) 明石はスイスの商人から5万挺の小銃を購入し、ペテルブルグ・モスクワ・ヘルシンキなどに送り込んだ。ロシア全土に暴動・反乱が広がり、日露講和条約が1905年9月5日に結ばれても、益々燃えさかるばかりだった。明石が任された機密費は現在の貨幣価値で100億円を超えるのだが、その謀略活動は世界史的に見ても最も成功したもの一つであろう。
 ところがである。10年前に刊行された稲葉千晴著「明石工作・謀略の日露戦争」(丸善ライブラリー)によると、明石の成功神話はかなり突き崩されているのだ。最終章は「明石工作は失敗か」だが、「武器をヘルシンキに輸送したが、到着した時は既にゼネスト終結していた。グルジアの諸港に陸揚げされた武器が1905年革命に使用されたかどうか、未だに判明していない。」などを挙げて、「明石らが心血を注いで進めた反ツァーリ諸党統一戦線の構築と武装蜂起計画は、ロシア1905年革命の帰趨には殆ど影響を与えなかったし、もちろん日露講和条約の締結にも何ら関わっていない。」と結論している。言い過ぎてもいかんと思ったか、著者は「明石自身はその本来の目的を達する事が出来なかったが、彼らの活動は歴史の中に確実な足跡を残したと言えよう」と締めくくっている。同書は英雄化された明石像を突き崩したようなのだが、仮にその見方が真実に近いとしても、39歳の公使館付一武官が欧州各国を飛び回って帝政ロシアの後方撹乱の為の諸工作に獅子奮迅の活躍をした事にいささかの変わりもない。