笠置山(288m)山頂散策              

 三月初めの日経新聞夕刊プレジャー欄に「笠置山トレッキング」と題する記事があり、「壮麗な磨崖仏、歴史刻む岩。低山ながら優れた風光」と紹介されているのを家内が切り抜いていたので、これを頼りに昨土曜日文字通り軽登山支度で出かけた。中国自動車道を吹田で近畿自動車道に乗り換え南下、東大阪JCTから第二阪奈道路を木津町まで東行し、そこから国道163号(昔の伊賀街道)で更に東行、笠置町に到着する。関西本線笠置駅に一旦来て見て案内書「笠置山自然公園マップ」を入手、それを頼りに登山口を探す。それは直ぐに見つかったが舗装道路なので、しばらく行ったら駐車場があるのかと思いかなりの急傾斜を気にしながら、降りてきたトラックとかつかつのすれ違いを二度こなして、広場に来てみるとどうもそれは頂上駐車場である。もともと標高288mとあったので登るのは200m以下と今回は高を括っていたが、これでは山頂の散策ではないかと気が抜けたものの、それなりの身支度をして出発する。鶯が鳴いてのどかな樹林である。
 直ぐに山門があり、本坊・鐘楼を過ぎた所で入場料を払って小冊子「天武天皇勅願所・後醍醐天皇行在所−笠置山」をもらうと笠置寺略記が記されていて「1300年前東大寺の実忠和尚らにより笠置山の大岩石(花崗岩)に仏像が彫刻され、その仏を中心にして笠置山全体が一大修験行場として栄えた。平安時代鎌倉時代には信仰の山として全盛を極めたが、南北朝時代以降荒廃し無住の寺となった。明治9年丈英和尚が復興に尽くす」とあるが、収蔵庫もややみすぼらしく由緒深い歴史を持つ割には寂しい寺である。一周800m、40分程度の散策だが順に記すと、正月堂・磨崖仏(写真左)・十三重石塔・虚空蔵磨崖仏(弥勒上生の図―実際に彫刻がはっきり残っている)・太鼓石・平等石(ここからの眺めは最高で木津川上流が見下ろせる)・貝吹き石(ここは展望広場で木津川下流が望め、季節によっては生駒山も見えるという)・後醍醐天皇行在所・大師堂である。
 前述の南北朝以降の荒廃であるが、1318年に即位した96代後醍醐天皇は政治に対し一貫して強い意思をもって臨んだ為、幕府との対決は避けられず、1331年幕府の攻撃に対し天皇笠置山に逃避したのだが、武運拙く敗れ隠岐へ流されたのだった。この時の攻防は一ヶ月に及んだが、ついに笠置山は全山焼亡したと言われる。そんなこともあって写真の弥勒磨崖仏の彫刻は消滅しているのだが、画像は残っていて正月堂に展示されている(写真右)。後醍醐天皇はその後隠岐を脱出して船上山から諸国の武士の蜂起を促し、足利尊氏を味方にして1333年鎌倉幕府は倒壊した。翌年建武の中興、天皇親政となったのだが、結局失敗し、息子と孫まで97・98・99代で断絶。祖父の90代亀山天皇の兄の89代後深草天皇の系統の後小松天皇が100代天皇になったのだが、昨今の皇室典範問題に関連して興味深い。話は脱線したが、我国は歴史の国であり、列島は史跡名勝ばかりだ。