沖縄戦集団自決の真実                     

曽野綾子氏の、沖縄戦集団自決の真相に迫った『ある神話の背景』は昭和48年に文芸春秋から出版された後PHPで文庫本化されたが、いずれも絶版となり入手が難しくなっていたという。この5月WAC文庫から『沖縄戦渡嘉敷島−集団自決の真実』という書名で復刻されたと知り、早速書店で手にしてみると「大江健三郎氏の『沖縄ノート』のウソ、捏造された「惨劇の核心」を明らかにする」などと帯にあり、これも嘘の歴史の一例かと興味をそそられ、大江本と併せて通読した。
 日本軍の命令で住民が集団自決を強いられた、とする説が独り歩きするようになった発端は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された『沖縄戦記―鉄の暴風』であり、それによると事件の梗概は「慶良間列島渡嘉敷島には、陸士53期卒で当時25歳の赤松大尉を隊長とする海上特攻隊130名が駐屯していた。しかし、赤松隊長は舟の出撃を中止し地上作戦で最後の一兵まで闘うこととし、住民約300人には手榴弾を渡して集団自決を命じた。天皇陛下バンザーイの叫びが手榴弾の炸裂でかき消され肉片がとび散り、谷間の流れが血で彩られていった。昭和20年3月の米軍の上陸後、部隊は壕にひそみつづけたが、最後は投降勧告に応じて降伏した」であり、これが定説となっている。
 しかし曽野氏は、赤松大尉はもちろんその部下だった元兵士や同島で生き残った住民たちとの面談など独自取材の結果をまとめて、前述の『ある神話の背景』を出版し、この定説に初めて疑問を投げかけたのだ。復刻版を読了したとは言え300頁を越える長文でもあり、産経新聞石川論説委員による解説を借用しながら、要点を以下に示す。?集団自決を糾弾する多くの資料・書籍を調べ、いずれもそれらは前述の『鉄の暴風』からの孫引きであることを突き止める。沖縄タイムスの当時の担当者や取材協力者にもあたり、同書は集団自決の直接の目撃者ではない二人の伝聞に基づいて書かれたことを知る。?更に曽野氏は、前述のような丹念な取材の結果、集団自決は起きたものの、赤松氏が自決命令を出したという証拠は得られなかったと明言する。?当時の新聞記者たちは、殆ど赤松隊の元隊員や島の住民に会っておらず、『鉄の暴風』の記述を鵜呑みにして旧軍関係者を糾弾し続けたのである。?『沖縄ノート』で大江氏は、「命令された」集団自殺を引き起こす結果を招いたことがはっきりしているとか、あまりにも巨きい罪の巨塊とか、と指弾しているのだが、曽野氏は「私はそこに居合わせなかったし、私は神ではない」として断定は出来ないとしている。?最後に石川氏は、曽野氏の触れなかった座間味島での集団自決についても真相が明らかにされつつあるとして追加している。すなわち、その座間味自決から32年後の昭和52年3月26日、生き残った元女子青年団員は娘に「(玉砕を命じたとされてきた)梅沢隊長の自決命令はなかった」と告白したし、遺族が援護法に基づく年金を受け取れるように事実と違う証言をしたことも打ち明けたという。また、昭和62年3月、集団自決した助役の弟が梅沢氏に対し、「集団自決は兄の命令で行われた。私は遺族補償のためやむを得ず、隊長命令として(厚生省に)申請した」と証言したそうだ。
以上のように「旧軍の命令で住民が自決した」とする従来の定説は、ほぼ否定されたと言えるのだが、日本の中高の歴史教科書の大半には、依然として「……手榴弾をくばるなどして集団的自殺を強制した」「日本軍によって集団自決を強いられた人々……」などの記述が残っている。少なくとも歴史教科書の記述の誤りは正すべきであると私は考える。 集団自決から60年後の平成17年8月、赤松氏の遺族と梅沢氏は、大江氏と岩波書店を相手取り、名誉を傷つけられたとして損害賠償と謝罪広告を求める訴訟を大阪地裁に起こしたそうであるが、単に個人の名誉の問題としての判決でなく、軍命令の有無は国の名誉に関わる問題であり、更に本件は日本軍残虐説を誇張させたきらいもあり、この際徹底した真相究明がなされることを期待してやまない。