この国の価値を求めて            

 中央公論7月号に「こんな国家で満足ですか」という特集があって、その中で『見失われた「この国の価値」を求めて』と題して京大教授佐伯啓思氏は、今日の日本のナショナリズムの課題を論じている。明確な回答ではないが、戦後状況下でかき消されてしまった固有の価値観を、それぞれが手探りで取り戻そうとしていると、最近の我国の動きを評価している。要旨は下記。
 (1)「新しい歴史教科書」をめぐって左翼と保守の対立が鮮明化したり、拉致問題に対する国家の役割が問われたり、中国の反日暴動がきっかけになったりなどで、国家やナショナルなものを肯定的に論じる事が昨今はタブーでなくなって来ているし、ナショナリズムを巡る保守と左翼の抗争は明らかに保守派に有利に展開している。しかし、保守派が勝利したのかと言うと、事はそれほど簡単ではなく、保守派の国家観とは何か、その事が改めて、イラク戦争などを通して、問われている。
 (2)開戦当時保守派は「日本の国益の為にはアメリカとの同盟を最優先する」という名目でこれを支持し、一方左翼は反戦平和主義の立場からこれを批判した。アメリカの名分は「世界の民主化」の為には、まがりなりにも主権国家であるイラクを侵犯する事が出来るというものであり、これはまさしく「左翼」的理念であって、本来なら左翼が支持して保守が批判すべき事柄なのである。このような奇妙なねじれに対し、保守派はその立場を明瞭に説明しなくてはならない。このような形で日米同盟を強化すると言っても、拉致問題歴史認識問題など日本独自の課題に対し、アメリカは日本に都合のよい行動は取れないと思われるからである。更に経済的グローバル化に伴う「経済構造改革」についても、日米関係強化という「国益」の追求が、日本経済をアメリカ主導のグローバリズムの荒波へと投げ込む事で、日本経済政策をアメリカの強い影響下へ置く事になる恐れが大きい。
(3)ここで「国益」の観念を考えたいが、国家には?力の体系、?利益の体系、?価値の体系の三つがあると言われる。力や利益は一見分かり易いものだがこれらの追求だけを「国益」とするわけには行かず、何をもってある国の力とみなすのか、何をもってその国の利益とみなすのかを最終的に判断するものはその国の奉じる「価値」に他ならない。と考えると、保守派が唱える「アメリカとの同盟こそが国益」という場合の「国益」があまりに限定されたものである事に気づくであろう。それはせいぜい、極東秩序の不安定性に対する軍事的な意味での「国益」に過ぎないと思われるからである。その国の歴史観・世界観・倫理観こそがその国を支える「価値」であり、そしてそこにはその国の固有の歴史と文化への自覚的な眼差しが無ければならない。
(4)例えば歴史観を取り出した時、日本はアメリカとそれを共有しているのだろうか。アメリカの歴史観とは、世界は自由と平等、民主主義の普遍化に向けて人々を抑圧から解放するという進歩主義的な理念から導き出されたものであるが、日本は果たしてこのような西洋啓蒙主義やヘーゲル主義を変形して出て来た歴史観を共有しているだろうか。私(佐伯教授)はそうは思わないが、それにも関わらず事態を複雑にしているのは、戦後日本は、アメリカ的価値の影響下にあって、まさにこのような歴史観を受け入れたかのように見える、という点にこそあろう。靖国問題に関する中国の認識は日本人には少々違和感があるが、しかし実はアメリカの占領がもたらした歴史観であった。
(5)国民とは共通の歴史的背景を持った文化や価値によって結びついた人々の集まりであり、その国民の持つ歴史観・世界観・倫理観は、本来は歴然として存在し、広く言えば宗教観・自然観・死生観と繋がっている。にも拘らず戦後日本は天皇制国家からリベラルな「近代国家」へと転換すべしという理念に引きずられてこれらの「価値」まで見失ってしまったように思われる。アメリカ型の進歩的歴史観、西欧的近代主義のもたらした合理主義や成果主義、民主主義の絶対化、こうした西欧の「価値」を一度は相対化して、見失われた「この国の価値」へ向ける眼差しを通して、「我々の歴史観・世界観・倫理観・死生観など」を手探りで表現して行きたいものだと。同感。