4 パール博士顕彰碑に思う


 東京裁判に関する参考図書の一つ「パール判事の日本無罪論」(田中正明著・小学館文庫)の二四七頁に、一九九七年京都東山に建立されたパール博士顕彰碑の写真が載っている。いつか行ってみようと思っていたが、今日そぼ降る雨の中それが実現し、京都駅から北東方向三kmの霊山(りょうぜん)護国神社内の現地を訪ねた。高さ幅共に約二mの大きな碑で、氏の上半身を写した陶板が埋め込まれ、左側には以下の英文が刻まれており、右側がその訳だが、併せてご紹介しよう。

 When time shall have softened passion and prejudice, when reason shall have stripped the mask from misrepresentation, then justice, holding evenly her scales, will require much of past censure and praise to change places. 時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、そのときこそ、正義の女神は、その秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するだろう。
 
 十一人の判事の一人として当時六七歳のインド人パール博士はカルカッタ大学の総長を辞して着任し、膨大な資料を読破して、多数派判決文より長い英文二五万字一二三五頁に及ぶ「判決書」を執筆した。全七部構成の最終部「勧告」で「被告全員は無罪」と主張し、その勧告文の最後を前記の言葉で結んだのである。この心血がそそがれた判決書は法廷においては公表されず、関係者の努力で判決後三年半目の一九五二年四月二八日(日本独立の日)に「パール日本無罪論」として出版されるまで書庫深くに埃をかぶったままだったそうだ。
 しかし、一九四八年一一月一二日の判決の日以降、欧米の法曹界・言論界ではこのパール博士の少数意見が非常な波紋を呼んでいたと言う。一例ではあるが、英国の国際法の権威であるハンキー卿が一九五〇年刊行の著書「戦犯裁判の錯誤」でパール判決の正当性を明言し、また米国最高裁のダグラス判事は一九四九年「極東国際軍事裁判所は司法的法廷ではなく、政治権力の道具以外の何物でもなかった」と同じくパール判決を支持した。実質的に裁判をリードしたマッカーサーは帰国後、上院軍事外交委員会での査問の際、当人自ら「日本が第二次大戦に飛び込んで行った動機は安全保障の必要に迫られたためだ」と証言し、トルーマン大統領との会談においてははっきりと「東京裁判は誤りであった」と報告したむね、アメリカ政府自身が発表したと言われている。
 当時の日本の新聞や雑誌がこれを取り上げ得なかったのは、占領下の検閲制度によるものとしても、その後独立し言論に自由過ぎる程の自由が与えられてからも、この国では一向にこの問題が取り上げられず、国際法を無視した不公正な判定を鵜呑みにして今日に至っているのは一体どうした事だろうか。 何かが少しおかしいと私は考え込んでいる。

 ここまでは三年前(二〇〇三年五月)に書いた短文だが、最近靖国神社境内を散歩していてちょうど同じパール博士顕彰碑に出会い、それが一年前に除幕式が行われた碑であると知った。この三年間、東京裁判につき読んだり少々考えたりした事もあり、これを機に以下短文の補足をする。
 京都霊山護国神社を訪れた後しばらくして、パール博士の判決書とは一体どのようなものなのか、永田町の国立国会図書館を訪ねた。それは一九五三年カルカッタで発行された「INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR THE FAR EAST : DISSENTIENT JUDGEMENT OF JUSTICE PAL」を底本に、獨協大学教授中村粲氏らにより編集校正され、国書刊行会から一九九九年に「東京裁判・原典・英文版―パール判決書」という書名で出版された七〇〇頁の大著であった。中村氏のForewordの要旨は「全般的に言って、東京裁判におけるパール博士の見解の依って立つ基盤は、法律的正義に関する強い信念および人類・歴史についての深い思考であると言ってよい。博士の見解はアジアの歴史に対する深い造詣に依拠していて、その判決文の大半を紛争・事変・戦争などの歴史的背景の記述に充てていると共に、共産主義の脅威についての鋭い洞察という点でも特徴がある。あたかも歴史書を読んでいるかのようで日本人にとっては特に感動的である。」である。パール博士は一九六六年日本政府から勲一等瑞宝章を授与せられているが、翌年カルカッタの自宅で八十二歳で逝去された。大著を手にしながら私も博士の慧眼に感銘を受けた。
 一九九六年に青山学院大学名誉教授佐藤和雄氏の監修で、八十五人の外国人識者による東京裁判批判「世界がさばく東京裁判」が刊行されたが、最近は日本人若手研究者による、例えば「文明の裁きをこえて」など東京裁判の不当性を訴える研究書の出版も増えてきて頼もしい。
 さて前述の米国上院におけるマッカーサーの証言だが、近年我国でも注目されるようになり、創刊三十周年記念企画として月刊誌「正論」で「マッカーサー米議会証言録(一九五一年五月三〜五日)」の連載が二〇〇三年十一月号から始まり、現在もまだ続いている。三回目では「第二次世界大戦中の対日戦略」という項目があり、ここで議員の質問に答えて前述の主旨を述べているのだが、以下に原文を紹介したい。There is practically nothing to Japan except the silk worm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in the Asian basin. They feared that if those supplies were cut off , there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
GHQ最高司令官として占領統治を成功させるには、日本の過去を完全に否定しなければならなかったのであるが、一九五〇年の朝鮮戦争勃発に際し、朝鮮と満州の敵勢力を掃討して日本を防衛する為に朝鮮の地に降り立ち、大陸からの中ソの脅威に直接立ち向かって初めて、マ司令官は極東における日本の地政学的位置を痛感し、戦前の日本が置かれた立場を理解したと言われている。翌年帰国して大統領に「東京裁判は誤りであった」と報告した所以である。
 私は大東亜戦争の主原因は「共産主義との戦いと門戸開放をめぐる日米抗争」にあると考えているのだが、米国の巧妙な占領政策により隠蔽されたこの歴史の真実を我々自身で顕在化させ、国民の共通認識としなくてはならないと考える。

 このような主張を家族に見せると一斉に「パパは右翼」と馬鹿にされてしまうのだが、近現代史を多面的に勉強する機会の極めて少ない(我々を含めた)戦後世代に、パール判決書・マッカーサー証言などを理解させるのは至難かと思いつつ、戦後六十年経った今でもあきらめてはならない国民的な重要テーマだと私は信じている。何となれば、二〇〇二年PHP研究所から刊行された岡本幸治著「骨抜きにされた日本人」の結論にある如く、私も「今日の我国の根無し草的精神あるいは自信喪失して漂泊する魂の由来を尋ねれば、その基本構造は敗戦直後の占領政策によって作られたと言って間違いないし、それらを克服することが新たな日本の出発に不可欠である。」と考えるからである。
念の為に追記するのだが、開戦責任とは別に、稚拙な戦略と精神力万能主義で日本を敗戦に追いやり三百五十万人と言われる犠牲者を生んだ敗戦責任に関して、これまでの検証は不十分であるとの思いは私も強く持っており、引き続き日本人によって明確に究明され糾弾されなければならない。いずれにしても二度と戦争を起こしてはならないという不戦の誓いを人類共通の誓いにしなくてはならないのは言うまでもない。