英国兵422人を救助した駆逐艦「雷」艦長         

 新聞広告で興味をそそられ書店で手にとってみると、裏表紙は「ジャワ海を漂流中の英国兵の写真」で、書名は「敵兵を救助せよ!」、著者の恵(メグミ)隆之介氏は元海上自衛隊士官となっている。早速図書館で借りてきたが、第6章スラバヤ沖海戦が話の中心だ。大東亜戦争開戦2ヶ月後の昭和17年2月13日、シンガポールを基地にしていた英国艦隊はジャワ島スラバヤ港に転進、米英蘭豪連合艦隊を編成したが、ここに本書主題の英重巡洋艦「エクゼター」と随伴駆逐艦「エンカウンター」の姿があった。一方2月24日バンカー泊地に集合していた日本艦隊 (第5戦隊、第2水雷戦隊、第4水雷戦隊、別働部隊) はジャワ海を目指して一斉に出港したのだが、本来の任務は陸軍の上陸船団38隻の護衛とジャワ島上陸作戦の支援だ。日本艦隊は巡洋艦6、駆逐艦16だったが、連合艦隊巡洋艦5、駆逐艦10だ。2月25日連合艦隊は日本軍迎撃の為スラバヤ港を出航。27日夕刻両軍の砲撃が始まり、第5戦隊「羽黒」が放った20cm砲弾が「エクゼター」に命中、同艦はスラバヤ港に退避。28日同じく第5戦隊「那智」「羽黒」の魚雷が連合艦隊の主力巡洋艦に命中、司令官が戦死。3月1日第5戦隊と別働部隊「足利」「妙高」「電」「雷」は英米軍を挟撃する事になる。応急修理をして出て来た「エクゼター」を駆逐艦「電(イナヅマ)」が集中砲撃後魚雷2発で撃沈。その直後から「電」は午後5時迄救助活動に専念し、「エクゼター」の乗組員376人を救助して、ボルネオ島南部に向かったという。当時「電」に砲手として乗艦していた岡田氏(平成16年現在84歳)は自費出版の手記でその状況を回想している。一方この時救助された英海軍士官二人が同じく平成16年現在英国で健在であり、著者はインタビューを行い、その中の一人アレン元大尉は「日本海軍は偉大だった」と証言した、と著者は記している。
 さて本書の主題の「エンカウンター」の場合は次のようだ。同じく挟撃された同艦は引き続き追撃され、「エクゼター」の30分後に撃沈される。乗組員は救命浮舟などに摑まって21時間漂流した後3月2日の朝を迎えるが、今度は駆逐艦「雷(イカヅチ)」が漂流者を発見し艦長工藤は救助を命じる。「雷」は直ちに「救難活動中」の国際信号旗を掲げ、上司の別働部隊司令官に「ただ今より敵漂流将兵多数を救助する」との無電を発して世紀の救助劇は開始された。「雷」は終日海上に浮遊する生存者を捜し続け合計422人を救助するのだが、甲板は立錐の余地なく日英両海軍の将兵であふれていたという。以上は駆逐艦「エンカウンター」の砲術士官だった、当時20歳のフォール中尉(現フォール卿)の証言をもとに著者は書いている。フォール卿は工藤艦長への恩が忘れられず、戦後その消息を捜し続けるのだが分からず、後年工藤の他界を知ったという。そして卿は1996年自伝「My Lucky Life」を上梓し、工藤と帝国海軍の武士道を讃えたのだった。2003年フォール卿は初めて来日したのだが、これを知った外務省や海上幕僚監部は「いかづち」観艦式に卿を招いた。当時の「雷」は二代目、現在の「いかづち」は四代目だそうな。卿は「61年ぶりに戦闘艦に乗る」と語り、「自分や戦友の命を救ってくれた「雷」艦長ご遺族を始め関係者に会ってお礼を言いたい。工藤中佐の墓前に自分の著書を捧げたい」と語ったという。そして著者は、フォール卿のエピソードはまだ尽きないと続ける。1992年スラバヤ沖海戦五十周年記念式典がジャカルタで行われ、インドネシア海軍将官及び同盟国各国武官が参列したそうだ。フォール卿は記念講演を行い、ここでも工藤中佐の功績を称え「日本武士道の実践」を強調したのだが、万雷の拍手とスタンディングオペレーションが起こったという。
 前述のフォール卿の著書以外にも、英米の海軍機関誌などでこの感動的な救助劇は紹介されているようだが、我国では何故か恵氏の本書が始めてのようであり、著者は歴史の帳の中に埋もれようとしていた数々の事実を明るみに出す事に成功したのだ。今後海外でも出版する予定のようだが、我国のみならず世界の青少年に広く読まれる事を私も願ってやまない。