6 日中首脳会談あれこれ

 電撃的な安倍首相の中国訪問は昨年十月八日だったが、「戦略的互恵関係」という、これまでの「失われた」五年間を忘れさせるような言葉に、中国側が即座に応じるところまで交渉は熟していたようで、それには水面下で早くから関係者が動いていたようだし、何よりも安倍首相の意を体して自ら異例の水面下の交渉に当たって来た谷内正太郎外務次官の尽力と外務省の根回しの成果と言っていいと言われている。前外務省報道官で現在も外務省参与、学習院大学で麻生外務大臣と同期生だったと言う高島肇久氏も『日中経済が崩れるのを何としても避けたかったが為に、結局は中国側が、靖国を政治問題にしないという日本側の主張に折れた』とある講演会で述べていた。以前は体制批判の言辞が多かったと記憶している元日経記者・現早稲田大学教授田勢康弘氏までもが、昨年十一月二十日の日経新聞コラムに、「日本ゼロ年」の安倍外交、と題して、大変正直に安倍政権のスタートを高く評価している。曰く、『これまで十八人の新首相誕生を見てきたが、これほど「見間違えた」のは初めてである。不明を恥じるしかないが、今回の日中首脳会談実現で、この政権は期待された使命の半分は果たしたと評価してもいい』と。大変率直で微笑ましく信頼できる元記者である。

 これはこれで私も共感するのだが、後述の「新思考」に当時感銘を受けた記憶があって、中国側により強く日中関係改善の動きがあると感じていたものだから、「見間違えた」のは少々お粗末ではないのかとの思いが私にはあった。そこで小泉政権誕生の平成十三年四月以降の新聞切り抜きから靖国参拝に関する記事を拾い出し、過去数年に亘る日中関係の推移を整理してみた。
(一)平成十四年秋のAPECを機に小泉首相江沢民主席会談が行われたが、「江沢民主席はわずか四十五分の間に小泉首相靖国神社参拝への抗議と参拝中止の要求を三度も執拗に繰り返した」と、「非礼な言辞」の見出しで産経新聞が伝えている。
(二)それ以前の同年六月には中国内部で、米一極支配に対抗する周辺外交強化の一環として対日政策の見直しが行われたが、小泉首相の参拝に江沢民国家主席が激怒した事もあって、歴史問題への姿勢変更は公開されなかった。
(三)しかし同年十一月の党大会で胡錦濤(党総書記)指導部が発足した後、党機関紙「人民日報」の馬立誠氏は、「対日関係の新思考」を発表、中国側の歴史への過剰なこだわりや日本の現実への曲解などに立った反日現象を批判し、日中関係の改善を訴えて中国内で反響を呼んだ。
(四)翌平成十五年四月胡錦濤政権に影響力を持つと言われる中国人民大学国際関係学院の時殷弘(ジインコウ)教授が「中日接近と外交革命」と題して以下のような、私に言わせれば画期的対日関係改善五項目を発表したと、六月十三日の産経新聞が伝えている。
 ・日本の対中侵略については、日本側に重大な後退がない限り、これまで日本政府が公にして来た反省と謝罪で満足する事。すなわち歴史問題紛争を収束させる事。
 ・日本の中国への輸出と投資が大幅増加するよう計らう事。改革開放以来、日本が行なった大量の対中経済援助に対し、最高指導者が感謝の意を表明する事。
 ・日本の軍事力拡充と役割変化について語るには節度を持ち、いたずらな憂慮表明などをしない事。中米日間の軍事面の相互信頼のシステムを積極的に構築する事。
 ・東アジアの諸問題への日本の参加を歓迎し、大国の協調・協力の原則で東アジアの政治経済における中日関係を処理する事。東京・北京の主導権争いを防ぐ事。
 ・国連安全保障理事会改革では、日本の常任理事国入りを積極的に支持する事。
(五)中国政府のシンクタンク中国社会科学院の学術誌が、関係改善の是非をめぐり激論が続く対日関係について二つの新たな論文をこのほど掲載したと、平成十六年一月十日の産経新聞は伝えている。片や「戦略的な提携を」と主張する「新思考」派、片や「戦争責任追求を」の守旧派である。権力闘争の一端が見えるようだ。
(六)平成十六年八月の東京新聞は、前述(三)の馬立誠氏が自説を著書としてまとめ、二月に日本語版「日本はもう中国に謝罪しなくていい」を日本で出版した、中国での出版は許可されなかったので中国語版は八月に香港で出版する予定、と報じている。
(七)以上のように見て来ると中国内で「対日関係新思考」派が力を持ち始めつつあるやに思われるが、依然としてまだまだ守旧派が強く、平成十七年四月には北京大使館への投石を始めとする反日デモが頻発し、デモは中国各地で暴徒化した。胡錦濤主席は、四月ジャカルタでの小泉首相との首脳会談で、歴史問題などでの日本の態度を批判、靖国神社参拝や歴史教科書問題で日本側が「歴史への反省」を行動に移すよう要求したという。胡主席は本音では「新思考」派であるらしいのだが、まだまだ守旧派にも目配りせざるを得ない状況らしい。
(八)このような中国側の横柄な出方に対し、『我が国政治家達ときたら、謝罪要求・賠償要求はどこへやら、中国政府のメッセンジャーよろしく小泉首相靖国参拝中止を迫っている、彼らは異口同音に国益を強調するが一皮むけば「国益は私益」という政治家は居ないだろうか』と、産経新聞論説委員長(当時)・千野鏡子氏が「政治家よ、国を危うくするなかれ」と題する平成十七年六月の紙面で慨嘆している。
(九)この頃になりいよいよ靖国参拝問題は海外のメディアでも取り上げるところとなり、平成十七年秋のニューヨークタイムズ紙面は「反日論調露骨になり、中国寄り主張を繰り返している」と産経新聞古森記者がワシントンから伝えているものの、一方ウォールストリートジャーナルは『反日の動機は、歴史でも靖国でもなく、日本の国連安保理常任理事国入りの動きや中国の対台湾政策に対する「日米の懸念」表明であり、靖国参拝批判は日本への圧力の道具でしかない』と冷静に発言するなど、米国の大方のメディアやオピニオンリーダー達は小泉首相に好意的である。
(十)最後であるが、平成十八年三月に訪中した我が国日中友好七団体に対し、胡錦濤主席は『日本の指導者たちが靖国神社にこれ以上参拝しないということになれば、首脳会談をいつでも開く用意がある』と述べ、代表の元首相・故橋本氏は『日本へのメッセージとして受け止める』と応えたという。そのような事が大きく報道されて国民も不安に駆られ、親中派福田康夫氏への世論の支持率が急速に上がったのであったが、北朝鮮テポドンが七月に発射されたりして流れは安倍総裁で決まった。
以上のような経緯を思い起こしてみると、中国側にも日本との関係の修復を急ぎたい思惑が熟して来て、冒頭記載の安倍・胡錦濤会談となったと私には思われる。

いずれにしても胡錦濤中国は北京を歓迎ムード一色にして、国賓級で安倍首相を迎え入れたのだが、しかし、水面下では双方ギリギリの駆け引きが続いていたようであり、関係修復の思惑が熟しているとはいえ、一筋縄では行かなかったようである。直後の産経新聞記事から、会談成立に至る内幕をまとめてみる。したたかな中国が改めて実感出来る。?八日夕の温家宝首相主催の晩餐会の直前、我が国外務省高官が「中国側の意向」として、挨拶の修正を安倍首相に求めて来たが、『何故私の挨拶の内容を中国側が知っているんだ?』と首相は問い詰め、最後まで首相は頑として譲らず、両首相の挨拶は結局キャンセルになった。?温首相は会談の冒頭から漢詩などを引用してとうとうと話し始めたが、安倍首相はそれ以上に時間をかけて話を続け、特に歴史認識靖国神社参拝に対する中国側の婉曲な批判への反論にはたっぷり時間をかけた。外務省が作った想定問答は殆ど無視され、会談時間は予定の一時間を三十分もオーバーした。また『過去の歴史問題では、我が国六十年の平和国家としての歩みに正当な評価を求めたい』と述べ、温首相からは『評価している』、胡主席からも『信じている』という言質を引き出した。?今回の会談の日取りについて安倍首相が決断したのは十月三日だったが、正式発表の土壇場でも激しい攻防があった。中国側が急遽、正式発表の際に「政治的障害を除去し」という言葉を使うよう求めて来た。首相は会談延期を匂わせて拒否、最後は中国側が「除去」を「克服」に変える事で折れたという。?会談の文書化をめぐっても暗闘が続いたが、訪中前日になって中国側が大幅に譲歩してきたという。常套句「歴史を鑑に」は「双方は歴史を直視し」に変わり、日本側が主張する「未来志向」「東シナ海問題の協議」「北朝鮮への憂慮」も加えられた。これらを綜合して考えると、相手の機嫌を損なわない事を最重要視してきた我が外務省も安倍首相に尻を叩かれ、今回は対等に交渉を進める事ができたように思われる。結果として、首脳会談が日中両国とも成果を強調できる形で終わったのは良かったと私は考える。
 今回の会談実現に至る過程で、安倍首相は「参拝したか・しなかったか、するか・しないかは、外交・政治問題化している以上申し上げない」「政治的困難を克服し、両国関係発展の観点から適切に対処していきたい」と表明しているのだが、これについて保守層からは強い不満が述べられているようだ。しかしここは安倍首相も『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……』という思いであったようだし、世の中の交渉事で、しかもしたたかな中国との交渉でこちらが満点などというわけにはいかない事を勘案すれば、まずまずの成功だったと言っていいし、首相を追い詰めない方がいいと私は考える。今秋には江沢民派が一掃されそうだし、前述のような論争も「対日関係新思考」派が優位になる可能性も高い。自ずと道が開けて来るものと期待している。