H.ノーマン:スパイと言われた外交官 [木戸幸一その1] 

対米戦争の開戦責任に関する論議終戦当初から有り60年経ってもなお続いている。それは私の現代史復習のテーマの一つでもあり、以前に『日米開戦と近衛文麿の責任』を書き、「軍部の責任ももちろん大きいが、日本を破滅に導いた最大の責任者は近衛文麿である」と結論したが、なかなか事はそれ程簡単ではなく、「もっと悪いのは昭和天皇の一番近くにいた内大臣木戸幸一だ」との説が出されている。何回かに分けて解説を試みたいと思うが、今回は「その1」である。
工藤美代子氏の著書「悲劇の外交官――ハーバート・ノーマンの生涯」は1991年に岩波書店から出版されたが、先々月筑摩書房から「スパイと言われた外交官――ハーバート・ノーマンの生涯」と改題され、文庫版として内容を大幅修正して新たに出版された。まずノーマンなる人物の略歴をまとめておく。『歴史家・外交官、ハーバート・ノーマンは1909年カナダ人でメソジスト会宣教師の第3子として軽井沢で誕生。1927年に結核療養の為カナダに単身帰国、その後トロント大学ケンブリッジ大学コロンビア大学ハーバード大学で学び、世が世だったのであろうが、社会主義への共感を強め、歴史学(特に日本史)を研究する中で、当時ハーバードに留学中だった都留重人やその他社会主義的学生と交友を結んだ。1939年30歳でカナダ外務省に入省し、翌年東京のカナダ大使館に赴任、家族と再会。左翼の羽仁五郎丸山真男らからも教えを受け、日本のファッシズム化の根本原因を封建遺制に求めた「日本における近代国家の成立」(1940年、邦訳は1947年)を出版した。(これは終戦後に日本理解のバイブルとしてGHQ(連合国総司令部)で悪用された) 1942年には交換船でノーマンは帰国したが、アメリカからの要請もあり、終戦早々の1945年8月25日にカナダ外交官として再来日、GHQの対敵諜報部調査分析課長となり、占領下の日本の民主化・諸改革に携わる。1946年駐日カナダ代表部主席、1951年サンフランシスコ対日講話会議のカナダ代表主席随員、1956年には駐エジプト大使となるが、マッカーシズムの嵐の中で以前からソ連のスパイだったという嫌疑をかけられ、1957年4月4日任地カイロの9階建てビルの屋上から投身自殺を遂げる。』
工藤氏はアメリカ・カナダ・イギリス・オーストラリアの公文書館に保存されている外交文書を読み解き、以上のような劇的な生涯を20章に亘って詳細に追っており、各章表題は、軽井沢に生まれて・青年期の記憶・死の渕を生きる・ケンブリッジ大学にて・青春の葬送・分岐点・空白の三年間・戦後処理のなかで(1)・同(2)・戦後日本の構築・GHQの内部闘争・天皇退位説の渦中に・ノーマンとウィロビー・マッカーサーとの乖離・晒される過去・共産党の党籍・別離の日・カイロ赴任・中東危機に直面・自死選択となっている。著者はあとがきで、「国際共産主義に深く関わった外交官の生涯を追ったのだが、ベルリンの壁がハンマーで打ち砕かれ、レーニンスターリン銅像が民衆の手で引き倒された挙句にソ連が崩壊して行く時期であり、それらを映像のように眺めながら、彼が身を沈めようとした共産主義がいかに亡霊のようなものであったかを思い知らされると共に、再び同じ事が起きない為にしっかりとノーマンへの弔鐘を鳴らしておきたい」と述べている。未解禁の文書が未だ多数あるそうで、著者は更なる新事実の発見を望んでいる。
一方私はノーマンと都留重人の深い関係に改めて関心を強めた。先述のように1942年ノーマンは交換船で帰国の為に日本を発ち(西回り)、ハーバード大を卒業して講師になっていた都留重人(1912〜2006)は同じくアメリカを発った(東回り)。アフリカの現モザンビーク民共和国のマプトが引揚者交換場所であり、そこで二人は偶然にも?すれ違いに立ち話が出来たのを利用して、アパートの鍵を渡しながら、都留は残して来た蔵書を受け継ぐようにノーマンに依頼したという。ノーマンが都留のアパートを訪れると捜査中のFBI職員と鉢合せとなったなど、スリラーのような話もあり、後年一橋大学の学長にもなった都留重人の秘密にも迫らなくてはならない。