われ巣鴨に出頭せず(1)  [木戸幸一 その2]      

平成18年7月18日の日経新聞夕刊に大変興味深い記事があったのだが、戦争責任を考える上で重要な情報なのでここに紹介する。「H.ノーマン」に続く「その2」である。「近衛文麿の尋問記録、英国で発見」「敗戦は必至、軍の暴走に苦悩」などの見出しの後、以下のように要旨が述べられている。「日米開戦の直前まで首相を務めた近衛文麿(1891〜1945)を米国の調査団が尋問した時の記録が英国で見つかった。「(太平洋戦争は)最初から負けると思っていた」などと証言。無計画な軍に引きずられた自身の力のなさを吐露している」 以下に記事の主要な点を転記する。
 連合軍が戦争中に行った空襲の効果を検証する為、終戦直後日本に派遣された米戦略爆撃調査団が記録を作成。尋問は1945年11月米駆逐艦アンコンの艦上で長時間に亘って行われた。現在は英国ナショナル・アーカイブスが所蔵しているが、今まで公開されていなかった。今年(H18)3月、ノンフィクション作家の工藤美代子氏が、近衛を題材に本を執筆する為訪れた際に発見した。尋問は、敗戦をいつ認識したかとの問いで始まって多岐に亘っているが、1937年から三度首相を務めながら、何故戦争を避ける事が出来なかったのかという質問に対しては、「方針の多くが軍に左右され、一定の妥協をする必要がしばしばあった」とした。日米開戦に至る過程では、中国からの撤退が大きなカギを握っていたと証言。第三次近衛内閣が倒れた(1941.10)のも「中国からの撤退をめぐる(軍との)意見対立の結果」とした。外交に迄介入した軍に引きずられ、日本は戦争に駆り立てられて行く。中国からの撤退が日米関係のカギと考えた近衛に対し、東條陸相ら軍部は撤退しても米国との衝突は不可避と主張した。近衛が「戦争を何としても回避しようと心に決めた」のは、山本五十六連合艦隊司令長官の「連合艦隊は一年半ほどは戦えるだろうが、それ以降は戦えるとは思わない」という発言だったようで、「戦争が始まれば、日本に望みは全くない」と思ったという。工藤さんは「戦争の見通しを率直に語った山本五十六も偉かったが、近衛はそれを如何に真剣に受け止めていたかが尋問記録で分かった。一切自己弁護もしておらず、追い詰められた場面でも紳士でいられた本当は強い人物」と、従来は弱い人物と見られている近衛について逆の評価を下している。著書『われ巣鴨に出頭せず』は近く刊行される。[以上は記事要約]
 その工藤氏の新著だが、新発見の外交文書などを通して、葬り去られた昭和史の棺の重い蓋が今開かれるとして、夕刊の数日後に日本経済新聞社から刊行された。前半は省略して、第8章「日米交渉の破綻」から読んで行く。近衛としては、日米戦争の回避を第一に考えなくてはならないにも拘わらず、三国同盟が締結されて抜き差しならなくなったのに悩み、1941年7月第二次近衛内閣は総辞職、即日外相を三国同盟松岡洋右から海軍の豊田貞次郎に代えて第三次近衛内閣がスタートする。近衛はこの陣容で日米交渉の重い扉を何とかこじ開けようと再び立ち上がる。ルーズベルト大統領に会えれば、中国撤兵が持ち出されてもそれを飲んで決定調印するという非常手段をとる決心を秘めて、大統領との会見を申し入れたのだが、9月3日、大統領の返書は「近衛公には同情するが、やはり事前の予備交渉で詰める事が必要」であり、事態は好転しないまま9月6日の御前会議になだれ込んでしまった。ここで「10月上旬迄に対米交渉妥結の目途無くば宣戦」という[帝国国策遂行要綱]が、天皇のご不満を押しのけるように軍部主導で決定され、近衛は最も精魂傾けた日米交渉の結末を見る事なく退陣(10月16日)を余儀なくされ、内大臣木戸幸一の上奏により、東條内閣の発足となった。木戸は近衛を見捨てるようにして東條への流れを作ったのだが、そして天皇もこれは「虎穴に入らずんば虎児を得ず」だと賛成したらしいが、果たして「虎児」を得る事になるのだろうかと憂う者は多かったし、やんぬるかな国民は「虎穴」に入り込んで餌食になったのだと工藤氏は書き、天皇重臣を糾合して軍部に立ち向かい、もって近衛を支援するという方向が打ち出せなかった木戸に大いなる不満を持っているようである。