われ巣鴨に出頭せず(2) [木戸幸一その3]

1941年9月6日の運命の御前会議の後、近衛首相は退陣し、木戸の上奏により10月18日東條内閣が発足した。天皇の意を汲み東條は対米交渉にそれなりに努力はしたが、所詮は時間切れであり、12月6日の真珠湾攻撃となって行った。緒戦の勝利が長続きする筈はなく、近衛の予想通り半年も経った頃には早くも大きな転換期を迎えた。1942年6月ミッドウェー海戦での敗北、1943年2月日本軍ガダルカナル島撤兵開始、同年5月アッツ島の日本守備隊全滅、1944年6月米軍、サイパン島に上陸と続いた。
工藤氏の掲題の著書の第10章は「情報天皇に達せず」であり、開戦後2年近くから始まっている。著者の意に沿って要点を記すと次のようである。『時局はかなり逼迫して来ているにも拘わらず、政府は正確な事を伝えない、木戸内府が事実を何も天皇に知らせない、東條と木戸の情報のみが陛下に届く、悲観的な戦況報告は全くしない、という状況下で、近衛の娘婿・細川護貞の気持ちは収まらなかった。「木戸は東條を、戦争をしない、という事で推挙したのに、戦争を始めしかも敗走を続け、このような暴挙を許したのは内大臣木戸の責任だ」と彼は書き、次のように近衛に直言した。「最悪の事態が来たらば、東條の暗殺は勿論、混乱の状況下に於いては、公も亦恐らく暗殺を免れざるべく、即ち座するも死を免れず、進むも死を免れずとせば此の際公爵に緊褌一番大勇を奮って前面に出らるる事必要なり」と。近衛は開戦以来二人だけで天皇と会えた事は一度もなかったし、天皇の前に立ち塞がる木戸の壁に業を煮やしていた。木戸の方も、東條の気持ちの揺れや行き詰まりが分かって来たのか、このまま東條という舟に乗っていたのでは自分も一緒に沈むと分かってきたのか、近衛と連絡をとるようになって、東條辞職の時の善後策を協議している。近衛は「現内閣辞職の場合には直ちに皇族に組閣の大命を降され、新内閣の輔弼により時を移さず停戦の詔勅を降し給う」というようなメモを木戸に渡し、延々と戦争継続の危機を説き、速やかに停戦し国体の護持を図らなければ、たちまち潜在する左翼分子によって共産主義革命が起きかねないと強い警告を発している。この時期、木戸は東條を見放す腹はくくったものの、東條と違う内閣を急激に作ったのでは東條を推した自分に責任が覆いかぶさるから、しばらく中間的内閣を作ればいいと考えていた。結局1944年7月東条内閣総辞職、陸軍の小磯国昭内閣が成立した。東條が下野して以来、木戸を見る周囲の目は以前とは違ったものになっていて、その分木戸は近衛との関係修復を考えるようになっていたが、近衛の進言を入れ、1945年2月には順次重臣の一人ひとりが直接天皇に言上出来る機会が作られた。そして2月14日、いよいよ近衛の、実に三年ぶりの拝謁となった。そして決死の言上の骨子は「敗戦は最早必至、憂うべきは共産革命、ソ連の干渉の危険、終戦を図るべく非常の御勇断を」であった。』
以後は端折って戦後に行きたい。第12章は「ハーバート・ノーマン都留重人」である。[木戸幸一その1]で記したように、ノーマンは終戦直後の8月25日に再来日しマッカーサーの下で政治指導者の情報を収集し、近衛と木戸の「戦争責任に関する覚書」を作成するのが主な仕事だった。そこでノーマンは木戸については大変甘く、逆に近衛については「彼は卑劣な性格で自己中心的虚栄心が強かった、東條を引き上げ重要な官職につけた、中国侵略を正当化した、……」など口を極めて近衛を罵っているのだが、工藤氏はこのようなノーマンの覚書の背景には共産主義者で親友の都留重人の入れ知恵があったし、都留夫人正子は木戸の姪(実弟和田小六の娘)であり、都留は木戸にとって不利な情報は注意深く隠蔽した、と言う。要するに木戸は都留・ノーマンを使って近衛を貶めたのだが、結局それは、12月16日近衛の毒をあおいでの自殺につながった。「それが運命であるかのように天皇の御楯として命を絶った近衛を、私は誇りに思う」と工藤氏は締めくくっている。更なる情報公開によりこの辺の闇はもっと解明されなくてはならない。