7 ペリー来航と開港開国

 猪口孝教授によれば、その後に大きな影響をもたらした日本の対外関係重要事件を挙げると、元寇・鉄砲伝来・ペリーの来航・先の敗戦と米軍占領の四つだそうだが、数年前から近現代史復習を心がけている私にとっても、ペリーの来航は最大の関心事であり、最良の教科書は、中央公論社の [日本の近代・全十六巻]の第一巻・松本健一著「開国・維新」(一九九八年初版)である。同書によれば、ペリー来航の要点は以下のようになる。

 『嘉永六年六月三日(一八五三年七月八日) アメリ東インド艦隊の軍艦四隻(サスケハナ、ミシシッピー、プリマスサラトガ、全長はそれぞれ七十七?、六十八?、四十四?、四十五?、前二隻は蒸気船、後二隻は帆船)が伊豆沖を通過して相模湾に入った後、帆をたたみ汽走に切り替え、三浦半島の先を回って幕府奉行所のある浦賀沖に着いたのは午後五時。一艘の幕府の船がサスケハナ号に横付けされ、与力の中島三郎助と通詞堀達之助が乗船し長崎に回航するよう退去を命じたが、ペリーの副官コンテー大尉は拒否し国書の手交日と受取人を決めるよう要求した。中島と同僚香山栄左衛門は異国船四隻の来航を江戸湾警備の四藩に通知すると共に、浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄に応接の次第を報告した。事態は当日夜半には老中首座・阿部伊勢守正弘のもとに届いていた。
 翌四日、中島は同僚香山を奉行に仕立てサスケハナ号に到着、国書の受取は不可能である事、仮に受け取っても、返答は長崎である事などを繰り返したが、ペリー側は強硬で、断固たる意思表示と共に香山に「白旗」を手渡した。(戦争開始後に降伏するならこれを掲げよ、の白旗伝説)。奉行の戸田は状況報告と共に、アメリカ側との応接の取り計らいについての「伺書」を幕府に提出した。老中阿部は国書の受取の腹を決めていたようだが、五日、使いを水戸藩邸に遣わし徳川斉昭の意見を聞く。その答えはやや曖昧だったが、「即時の打ち払いは得策でない」という方向に阿部は衆議を導いた。かくして六日、幕府はアメリカ国書の受取を指示した文書を、もう一人の浦賀奉行・井戸石見守弘道に渡し、奉行はこれを四日より待機していた同心組頭に持たせて浦賀に急行させた。七日朝九時頃、浦賀奉行所は三隻の舟をサスケハナに派遣、「国書受取は近傍の久里浜とし、儀式は九日」と伝え同意を得る。
 当日は晴れ、朝八時一行三百人が、そして最後にペリーが上陸した。仮設された百畳敷き相当の会見場に二人の奉行が一行を待ち受けたが、彼らは最後迄一言も発しなかったという。国書は日本側が用意した朱塗りの箱に収められ、受領書(オランダ語)の巻紙がペリーに手渡された。ペリーは最後に「来年四月か五月にもっと多くの艦船を率いて戻って来る」と言って会見場から出て行ったが、浦賀を退去したのは翌々日の十一日だった。』

 近現代史復習も読書のみではならじとの思いで、現地久里浜のペリー記念館を訪ねる事とする。娘の家のある北鎌倉からJR横須賀線で終点久里浜駅迄三十分、改札口を出て平作川に沿って二十分歩くと、東京湾の入口の浦賀水道に面した久里浜に出る。――ペリーに同行した画家ハイネの絵には舟が十艘ほど描かれているが、それはこの約一キロ?の海浜だったのだと感銘を深くする。――ここから右折して海岸に沿った「ペリー道路」をしばらく行くと右手がペリー公園広場である。一見平凡な市民公園だが、広場の中央に明治三十四年七月十四日完成の高さ七?もの石碑「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑―大勲位侯爵伊藤博文書」(MONUMENT IN COMMEMORATION OF THE LANDING OF COMMODORE PERRY)があり、また公園の右奥の無人の小さな記念館に入ると、ペリーの銅胸像が展示されており、これらを眼前にして百五十年昔の重大事件が改めて身近に実感出来た。それ以前から毎年送られて来ていたオランダからの情報で、ペリーに、日本へ向かう命令が出された事が分かっていたとは言え、前例の無い事態に直面しながら、この一週間の幕府首脳及び浦賀奉行の対応は誠に迅速で、堂々と立派なものであったと言えよう。

 翌年四月の再来を予告して離日したペリーの二回目の上陸地点を確認すべく、教科書によく出て来る「横浜開港資料館」を訪ねる事とした。初めての事だが地下鉄「みなとみらい線」に乗り、横浜駅から四つ目の「日本大通り」で降りる。地上に出て横浜港に向かって銀杏街路樹の大通りを行くと、左が一九二九年竣工の英国風歴史的建築の神奈川県庁、右が目指す資料館だ。旧館は一九三一年の建設で一九七二年迄使われていた元英国総領事館なのだが、薩英戦争で犠牲となった英国将兵の銘板や関東大震災で亡くなった領事館員の銘板が掲示されているのみで、現在は資料館来館者の休憩室となっている。資料館は横浜の歴史資料の収集保存・調査研究・展示閲覧の為に横浜市が一九八一年に開設したのだが、展示室は旧館の前に建てられた地下一階・地上二階の新館にある。開設当初、日本及び米国各地の公文書館・博物館・大学などからペリー及びその艦隊の来航に関する貴重な資料が多数提供されて「ペリー提督展」が行なわれたそうで、それら展示品全点を一括して記録にとどめ常設展示に利用しているようであり、「ペリー来航関係資料図録」 「ペリー来航と横浜」などの冊子にもなって一般に提供されている。
 その中の一冊に出て来る「ペリーの横浜上陸」と題する有名な絵(実物はハイネの描いた水彩画を基にブラウンが製作した石版画)の右端には玉楠が描かれているのだが、「その玉楠が六九年後の関東大震災で一旦は焼けてしまったものの、再び芽を出し大きくなったのがこの玉楠です」との標示を資料館の中庭にある玉楠の前で見つけた。そのつもりでよく見ると確かに、普通に植えた一本の木ではなく、大きな根のあちこちから生え出した集合体のような樹木だ。実はここが二回目の来航時のペリー上陸地点だったのだ。それは横浜港・山下公園北西端のすぐ近くである。上陸・交渉の経緯は次のようだ。

 『一八五四年二月十三日に柴村沖(磯子・横須賀間)に七隻が集結し投錨、後二隻が加わって一時は九隻の大艦隊の停泊となる。江戸の近くを強要するペリーと近づけたくない幕府とで、応接地についての応酬があり、到着後二週間かかって横浜という事で決着する。三月八日将兵五百名を率いてペリーが上陸、米国側の条約草案(清国との条約の焼き直し)を手交。この日を初回として四回の会談と書面による交渉が開始される。十五日日本側草案をペリーに送付。十七日の会談での長崎・浦賀松前那覇など五港の開港要求に対し、拒否しつつも当方は下田・箱館の開港を決意、二十四日の会談でこの二港開港を合意。三十一日ペリーが上陸して応接所に入り、十二ヶ条からなる日米和親条約(下田・箱館の避難港としての開港、漂流民など米人の救助、米国への最恵国待遇の付与、領事の下田駐在など)の調印。下田に廻航の際、吉田松陰の密出国を拒否するなどハプニングがあったがその後箱館に行き半月滞在した後、下田に再廻航・上陸、六月二十六日出航離日。』
  
 さてペリーは一八五二年十一月にワシントン近くを出航し、先述のように翌年七月浦賀に到達、久里浜に上陸した。その翌年二月再度来日し、横浜で和親条約を締結して帰国したのだが、この間の大航海について彼は全三巻の航海記を残している。ペリー自身の航海日記と公文書を中心に、艦隊指揮官アダムス中佐や通訳ウィリアムズらの航海記や日記・報告書を用いて、ホークスが編集した支那海・日本への遠征の公式記録であり、原著書名は「 NARRATIVE of THE EXPEDITION OF AN AMERICAN SQUADRON to THE CHINA SEAS AND JAPAN , PERFORMED IN THE YEARS 1852 , 1853 , AND 1854, under the command of COMMODORE M.C.PERRY, UNITED STATES NAVY 」である。私の手元資料で調べた限り、その翻訳は以下の通り数種類あるが、完全なのは?で、他は部分的であったり、解説書的に再編されたりしているようである。

1鈴木周作訳「ペルリ提督日本遠征記」臨川書店一九一二年
土屋喬雄・玉城肇訳「ペルリ提督日本遠征記」岩波文庫一九四八〜五五年
3大江志乃夫「ペリー艦隊大航海記」立風書房一九九四年 (朝日文庫二〇〇〇年)
4木原悦子訳「ペリー提督日本遠征日記」小学館一九九六年 
5(株)オフィス宮崎編訳「ペルリ艦隊大航海記」栄光教育文化研究所一九九七年 
猪口孝監修三方洋子訳「猪口孝が読み解く「ペリー提督日本遠征記」」NTT出版一九九九年

6によれば、猪口教授はペリー来航の評価を『(イ)軍事衝突にならず米国は日本を植民地にしなかった。(ロ) ペリーの理詰めの交渉のお蔭で日本は冷静に開港開国へ適応出来た。(ハ) 米国の挑発のお蔭で明治維新が起こり日本の近代化が進んだ。(ニ) 関税自主権を剥奪されたが、逆に自力更生のメンタリティーを身につけ、日本は非欧米で初めての工業化に成功した』と、大変高く評価しているが、私も同感で、ペリーは日本近代化の最大の功労者であろう。
 ペリーは自著の中で日本人について多くを語っているようだが、よく引用されるのは「他国民の物質的進歩の成果を学び取ろうとする彼ら日本人の好奇心と、それをすぐに自分達の用途に適用させようとする進取性をもってすれば、そして彼らを他国との交通から隔離している政府の方針が緩められれば、日本人の技術はすぐに世界の最も恵まれた国々と並ぶ水準に迄達するだろう。文明世界の今日迄の蓄積をひとたび手にすれば、日本人は強力な競争者として将来の機械的技術の成功を目指す競争に仲間入りするだろう」という部分であり、幕末の日本人の高い資質を誇らしく思うと同時に、一五〇年後正にその通りになっているわけで、ペリーの洞察力にも感嘆せざるを得ない。
 ペリー来航によって眠りを覚まされたと言える面ももちろんあろうが、それを契機に迅速にかつ適確に新しい時代を切り拓いた先人の教養の高さは、日本人の誰もが忘れてはならないのであって、いつまでも語り継がれるべきものである。日本史の授業は幕末から始めるのがいいのではないだろうか、と事あるたびに私は主張している。