近衛文麿、黙して死す  [木戸幸一その4]    

 工藤美代子氏の著書「われ巣鴨に出頭せず」では、木戸幸一についての疑念がかなり表現されていたのだが、これを徹底して糾弾したのが本年3月草思社から刊行された掲題の鳥居民氏の著書である。『誰が近衛を殺したのか、木戸・ノーマン・都留は何を隠蔽したのか? 昭和20年12月、元首相近衛文麿巣鴨への出頭を前に自決した。直前までマッカーサーは「公はまだお若い。敢然として指導の陣頭にお立ちなさい」と近衛を評価していたのだが、ノーマンの「戦争責任に関する覚書」以降、米国の態度が急変し、戦争責任追求の圧力が急激に高まってきた中での自決だった。その背後には元内大臣木戸幸一GHQ調査分析課長E・H・ノーマン、そして都留重人による驚くべき陰謀があった。近衛に開戦責任を負わせて自死させる事により何が隠蔽されたのか。戦後六十年を貫く虚妄の戦争史観がいかにして形成されたかを推理する、戦争史を根底から覆す第一級の歴史読み物』というのが、本書の書評なのだが、著者鳥居の言いたい事は「昭和16年10月半ばの第三次近衛内閣の退陣のくだりだが、近衛は間違いなく、内大臣木戸幸一に向かって陸軍の中国撤兵反対を取りやめさせるようにお上に言上して欲しいと説いたのである。しかし木戸の支持を得られず、近衛は辞表を出さざるを得なかったのではなかったか」である。
「もともと9月6日の御前会議は戦争会議ではなかった。近衛首相・豊田外相・及川海相が願っていたのは、中国からの撤兵を決断する事であり、日本の譲歩を米国に告げる事だった。木戸は天皇に向かって、陸軍大臣をお召しになり、中国撤兵への反対をやめよとのお言葉をいただきたいと言上すべきであった。しかし、彼はそれをしなかった。何故か。統制派の東條の代わりに皇道派の将領が陸軍指導部に復帰すれば、自分の政治生命が絶たれてしまう事態になるのを恐れたのである。このような事実を隠蔽して自分の責任を逃れるため、木戸はこの御前会議こそ宣戦決定の会議だった、その会議を主宰指導したのが近衛だという事にして、近衛を陥れようとした」のだと鳥居は木戸を糾弾する。木戸が考え、姪の夫・都留に相談し、更にノーマンと協議して、近衛文麿戦争犯罪人だと糾弾する意見書をまず作った。次に近衛の政治復活を阻止しようとして、都留とノーマンはあらゆるつながりを利用し、近衛に総攻撃をかけ、アメリカの新聞に徹底した近衛批判を載せさせた。10月25日のニューヨーク・タイムズには「近衛を現在その地位に留まらせておくのは、日本の降伏以来極東で起きている事の中で最も危険な事」という投書が載った。近衛に逮捕令が出たのは12月6日だったが、「僕は支那事変の責任を感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今、犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念」との文書を残して自ら54歳の命を絶った。生き長らえてこれ以上言えば結局天皇に塁が及ぶと考え、彼は自分に科した「黙」を守り通したのだった。以上が鳥居氏の自信溢れる推測だ。
次の日木戸は巣鴨へ向かった。昭和23年に終身刑の判決を受けたが、昭和30年には仮釈放となり、昭和41年のある講演では、昭和16年9月6日に近衛が主宰した御前会議で戦争をすると決めてしまったのだといった木戸・ノーマン史観をここぞとばかり熱心に繰り返し、自分がやった終戦工作を得意になって話したようだ。木戸幸一が他界したのはそれから後11年の昭和52年、87歳だった。更にそれから12年後、昭和64年昭和天皇が同じく87歳で崩御した。都留重人は1940年ハーバード大学講師、引揚者交換船で帰国、外務省嘱託となる。冷戦下の赤狩り旋風の中で、アメリカ留学当時共産主義者だった事を告白、これが学友ハーバート・ノーマンのカイロでの投身自殺の原因となったとの疑いを受ける。1972〜75年一橋大学学長、2006年死去。