大衆的世論による自民大敗              

参院選に於ける自民党大敗をもたらした逆風は佐伯京大教授によれば三つあった(9月1日産経新聞)。最初の二つは、(1)年金記録紛失問題や閣僚の失態に対して情緒的で流動的に反応する「大衆的世論」、(2)憲法改正論や教育改革論を回避して問題を年金記録に矮小化しようとした民主党を含めた「サヨク的勢力」、であるが、(3)そして三つ目は自民党それ自身であり、「戦後レジームからの脱却」を支持して安倍政権が誕生したにも拘らず、今回の選挙の前後を通じて自民党のいずれからも「宙に浮いた年金などでなく、戦後レジームの脱却こそが最重要課題だ」という声は響かなかった、と教授は総括している。
 評論家西部邁は「正論」10月号で上記(1)について、もっと激しく「安倍下ろしのどたばた喜劇」と題して以下のように論評している。(イ)「庶民の抱懐する伝統の精神」としての「輿論」ではなく、「大衆の弄ぶ流行の気分」としての「世論」に立法・行政・司法が追随するようになってしまっており、「世論を差配する」マスメディアは今や「第一の権力」を持っている。そしてそれは「お茶の間ワイドショー」に帰属しており、だから、政治家も学者も弁護士も三流テレビ芸人に、陸続と馳せ参じている。そして芸人は民衆の茶の間のど真ん中で大衆政治のどたばた劇を朝から夜まで取り仕切っている。(ロ)世間では拍手で迎えられたが度外れに醜悪なものに、小澤民主党代表が掲げた「生活が第一」との看板がある。この人物に限らず民主党系の政治家たちは「カイカク」の唱導者だったのであり、小澤氏は「自己責任」論と「小さな政府」論を引っ下げて自民党に破壊を仕掛けたのだ。小泉純一郎氏の後塵を拝したが、実は小澤氏がカイカク勢力の先頭で旗を振っていたのだ。それらを忘れる事が出来るのは痴呆化した衆愚のみだ。(ハ)(西部氏の解説をここでは省略するが)「大人の政治」の要諦は「活力・公正・節度・常識」である。私(西部氏)の見るところ、この平成に現れた首相の中でこの四つの総合点で、安倍晋三なる若い政治家はたぶん最高位にある。これは他の首相たちが酷すぎた事の結果でもあろうから、この若者をべた褒めする気は私(西部氏)には毫もない。指摘したいのは、この相対的に勝れた資質を見抜く能力や真剣さが、いわんやこの人物を激励したり育成したりする余裕は、今のマスメディア関係者にも選挙民にも、みじんも無さそうだと言う事である。(ニ)国内の状況については、過剰格差それ自体よりも、それをもたらした家庭・学校、地域・職場そして歴史・自然といった国柄にまつわる「共同体的なるもの」、それらの崩壊が進んでいる事を正視しなければならない。せっかくの参院選挙なのだから、このようなテーマについての洞察を各党が披瀝し合えば良かったではないか。若者たちが「還元水や絆創膏」の喜劇を楽しんでいたら、「馬鹿騒ぎもいい加減にせい」と年寄りたちは言ってやれば良かったではないか。(ホ)ホセ・オルテカが言ったように「馬鹿は死んでも治らない」のであるし、それが「利口ぶった馬鹿」としての大衆の運命であるのだから、大衆に出来るのは「有能な人材を全て引きずり下ろした後で、「人材が居なくなった」と嘆いて見せる」事ぐらいなのだ。大衆の演出し享楽する「残酷な喜劇」には終わりがない。そうなのだと察知する者が増える事だけが、大衆喜劇としての(戦後)民主主義に衰弱死をもたらしてくれる唯一の可能性である。その衰弱死がない限り日本の回復はない。
 西部氏の著書は文章的にも読みにくく、内容的にも若干違和感があってあまり好きではないのだが、この「正論」の小論には同感の箇所が多かった。小泉改革の時代には「何の為の改革か、どのような国を目指すのか、改革の目標を示せ」と言う論議があり、安倍政権では教育改革・防衛庁から省への格上げ・国民投票法などなど長年の懸案に短期間に着手したわけだ。そのような成果には一切触れず、西部氏の言うとおり、馬鹿騒ぎの大衆喜劇で有能な人材を引きずり下ろしたわけで、情けない限りだ。中国も北朝鮮もほくそ笑んでいるに違いない。