9 国民投票法の成立を喜ぶ

                                  
 日本国憲法の改正手続に関する法律、いわゆる国民投票法が二〇〇七年四月衆議院で、翌月参議院で可決成立し公布されたが、本法は三年後の二〇一〇年五月一八日に施行される。憲法改正の為には『各議院の総議員の三分の二以上の賛成で国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票に於いて、その過半数の賛成を必要とする』と憲法九六条で規定されているにも拘らず、具体的な国民投票実施の為の法律がこれ迄無く、一九四七年の現行憲法施行後六〇年を経てこのたび初めて制定されたわけである。一九五三年のサンフランシスコ平和条約発効後に、自治庁が国民投票法案を作成はしたのだが、閣議決定が見送られて放置された末に、安倍内閣で漸くにして成立したわけで、安倍さんの多くの功績の一つである。
 
何故それ程の時間を要したか、中央公論新社二〇〇一年発行の五百旗頭真著「日本の近代六:戦争・占領・講話」を参考に考えてみる。まず戦後日本の政治社会であるが、米国による日本大変革事業開始や、その途上での冷戦発生など種々の事態の進行の中で、順次三つの体制が重ね合わされ十数年掛けて固まって来た、という。第一が一九四七年五月三日施行の憲法体制(自衛権を否認していないが非軍事化と民主化が二大目標)、第二が一九五三年四月二八日発効の対日平和条約・日米安保条約に基づくサンフランシスコ体制(米国による安全保障を選び冷戦下で西側の一国として再出発。本格的再軍備に向かわず経済第一主義で行くと決心。)であり、第三が五十五年体制(一九五五年秋の社会党統一と保守合同)である。その保守合同迄のいきさつであるが、六年続いた吉田自由党内閣に代わって一九五四年に鳩山民主党内閣が成立し、翌五五年に総選挙が行なわれて鳩山民主党が第一党になった。しかし過半数には遠く及ばず、一方左右社会党は大幅に躍進し三分の一の壁を破って再統一を果たした為、経団連を中心に保守合同が強く求められる中、保守勢力を糾合した新党・自由民主党が出来上がった。この合同の意味の第一は反吉田大連合の成立であり、第二は公職追放解除復帰組による前述の憲法体制及びサンフランシスコ体制の担い手への反撃でもあった、という。この激しく入り乱れての政争ゲームを整理すれば以下の三つに大別される。すなわち(A)社会民主主義の路線、(B)日米基軸のもとで経済国家として再興を図る路線、(C)改憲再軍備により自立した伝統的国家を再建する路線である。 初期占領日本改革の中で(A)が急成長し、次に(B)の吉田内閣が六年間君臨したが、一九五五年に(B)・(C)が大同しつつ主導権は(C)の鳩山や岸に移行しようとしていたのである。もし彼らが改憲再軍備を実施すれば、日本は憲法体制を独立後数年にして精算し、やがて自前の軍事力を擁するパワーとなり、廃止を含む日米安保体制の改変が検討される事になっていただろう。だが実際には内政・外交の両側面からそうはならなかった。内政面で言えば、使命感に満ちて戦う岸首相の先見性のあるリーダーシップを、残念ながら、戦争に倦み悔やむ当時の国民は理解する事が出来なかったし、(C)への移行は戦後六十年余の今日未だに成功していない。以上は五百旗頭氏の見立てであるし私も同感である。

何故岸首相の先見性を国民は理解出来なかったのかが次の問題である。
 ここに「日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか」という長たらしい書名の本がある。西尾幹二と「路の会」が二〇〇二年に徳間書店から刊行したもので、『先の大戦で八十万の日本の民間人がアメリカの無差別爆撃・原爆投下で殺害された。しかし、戦争が終わるとたちまち日本人はこの事実から目を背けた。そして日本中が国をあげて当時もそして今も、アメリカ一色、アメリカに学べ式の、絶えずアメリカを意識する以上にはいかなる他の国をも意識しない一方的な過剰関心を示し続けて来た。これは戦後の特殊な現象である。』という問題意識で本書は貫かれている。
 同書には占領政策の実相ということでいくつかの事実が挙げられているが、まず(1)国家溶解の始まり、として、ミラン・クンデラの「笑いと忘却の書」が紹介され、要するに『一国の人々を抹殺する為の最初の段階は、その記憶を失わせる事である。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化を作らせて、新しい歴史を発明させる事だ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についても、その過去についても忘れ始める事になるだろう。』という事だそうで、その通りの事が占領下の日本で行なわれたと西尾氏は言う。すなわち戦後の日本では、問題とされた本が焼き捨てられ、伝統文化が否定され、「大東亜戦争」という日本人の歴史が消し去られ、「太平洋戦争史」という新しい歴史(一方的な日本侵略史観)が強要されたのである。更に私が補完すれば、二〇〇五年刊行の勝岡寛次著「抹殺された大東亜戦争」には米軍占領下の検閲・抹消の事例が四〇〇頁に亘って列挙されている。
 占領政策実相の次は(2)精神的武装解除である。日本人に贖罪意識を植え付ける為の占領政策なのだが、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが昭和二十年十月にGHQから発令されている。その基本規定は『各層の日本人に、?彼らの敗北と戦争に関する罪、?現在及び将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、?連合国の軍事占領の理由と目的、この三つを周知徹底せしめる事』となっていて、具体的施策が掲げられているが、一言で言えば、「侵略戦争」の責任者を処罰する東京裁判は「倫理的に正当」であり、又「侵略戦争」には「国民自身も共同の責任がある」を明示する事にこの計画の主眼があったと言う。
 さて私自身当時は国民学校二年生で何とも記憶にないが、西尾氏らの調査では『占領軍が東京に進駐した時点では、日本人には全くと言ってよい程戦争についての罪の意識が見られなかった。敗北は偏に産業・技術的な立ち遅れと原子爆弾によるものであると広く信じられていた』と言う。又終戦の年の九月六日の朝日新聞には「終戦議会録音」として、『戦ひは済んだ。しかし民族のたたかひは寧ろこれからだ、世界正義と民族の名誉をかけた武器なきたたかひは、世界人をして我等の立場を正当と是認せしめるまで続けられなければならないのである。』とあるそうだ。終戦直後のこの凛とした精神が、占領軍により広範囲に徹底して行なわれた大東亜戦争史観の否定・精神的武装解除によって音を立てて崩壊したのである、と私は考える。
このような占領政策が何故そのような大成功を収めたのか、「骨抜きにされた日本人――検閲・自虐そして迎合の戦後史」(岡本幸治著、二〇〇二年)を見てみよう。日本政治がいっこうに良くならないのは戦後体制の精神構造の問題だと氏は次のように言う。まず「進歩的文化人の後遺症」だが『戦後の日本で論壇ジャーナリズムを支配した進歩的文化人マルクス主義自由主義左派によって成り立っており、初期占領政策を推進したGHQ若手を核とする容共的自由主義者らと見事に対応していた。もちろん彼らがマスコミに闊歩した幸せな時代はすでに去っているが、その後遺症は戦後日本を長らく今日迄拘束して来ている。例えば日本の伝統・政治・国家そのものに対する否定的嘲笑的態度、近代的西欧的なものに対するコンプレックス、社会主義に対する好意的評価や礼賛などだ』。更に氏は「教育改悪の後遺症」について『日本人の精神的武装解除という緊急必須の要請に対し、放送メディアの管理は極めて重要で精神の改造迄目論むものであった。教育に関するGHQの指令は教育制度・教職追放令・神道指令など次々と出されたが、日本文化・宗教についてまともな知識を持たずにひたすら否定に励んだ側面のある事は否定できない。軍国主義超国家主義を裁こうとして独立心・自立心の基になる正当な愛国心迄も奪い去った結果は、単純な黒白史観による日本史の断罪と共に、今日迄日本の若者に大きな後遺症を残している』と慨嘆する。最後に氏は「相反する二つの占領政策の後遺症」として『初期占領政策の究極目的は日本の弱体化であった。日本近代の全面否定を象徴する強引な「東京裁判」と米国に従順な日本の建設を目指す「新憲法の制定」によってその弱体化は達成された。冷戦体制下の後期占領政策警察予備隊の創設に始まる再軍備であり日米安保条約の締結であった。いわゆる革新派は初期占領政策金科玉条とし、いわゆる保守は後期占領政策にひしとすがって倦むところが無い。いずれにしても従順な新国民を創出したという点で米国の占領政策は大成功だった』と締めくくる。要するに『今日の我国の根無し草的精神或いは自信喪失して漂泊する魂の由来を尋ねれば、その基本構造は敗戦直後の占領政策によって作られたと言って間違いないし、それらを克服する事が新たな日本の出発に不可欠である』というのが、著者の結論である。占領時代の対日施策の誤りの部分は一日も早く是正さるべきであり、遅きに失しているが実行に移すべく国民一人ひとりが立ち上がらなくてはならない、というのが私の結論である。

さて独断と偏見の作文であってはいけないので、京都大学大学院教授佐伯啓思氏の「団塊の世代から、戦後六十年を考える」と言う講演の要旨を以下に参考として添付したい。『(1)常任理事国入りに対する中国の激しい反対、(2)表向きはともかく同じく米国の明確な拒否、(3)手を差し伸べ謝罪を重ねたにも拘わらずの中国の激しい反日運動、などに出会う時、経済的人間として人生を送って来た団塊の世代は、何か大事なものが失われていると言う気に苛まれる。日本が六十年も経ってやおら世界の舞台に出て行こうとする時、同盟国米国でさえもそれに不賛成とは、やはり、あの戦争がまだ影を落としているのであり、あの戦争について決着がついていない、と思わざるを得ない。確かに、団塊の世代にとってあの戦争は分かり難い、性格づけの難しい戦争だ。全面的侵略戦争でもない、かと言って全面的自衛戦争とも言えない。「一部の軍国主義者が引き起こし推進した戦争だった」と言われても、とても釈然としない、にも拘らず、占領政策東京裁判そして講和条約と常に一貫して、あの戦争は「自由と民主主義の為に日本の軍国主義を打ち破った戦争」だったと決め付けられ、占領中はともかく独立後も、自らこれに関して発言する事なく来てしまった。戦後あの戦争の意義を考える事なく、米国に押し付けられた歴史観(それは中国が叫ぶ歴史観でもある)をそのまま受け入れ、経済成長に走り防衛に関心を持たず六十年が過ぎてしまった。そういう戦争ではなかったとせめて声を上げなくてはならなかったのにここまで来てしまった、その事が団塊の世代の戸惑いの原因なのだ』と佐伯教授は慨嘆する。
平成になってからやっと米軍占領時代の分析が始まったと言われているが、その一つに二〇〇〇年扶桑社出版の「日本の失敗と成功」という本がある。岡崎久彦佐藤誠三郎の対談記録だが、北岡・舛添・御厨・田中各教授など日本の政治思想を今後リードしていく人材を数多く育てた東大教授・故佐藤氏は、著書の最後に『我国は、植民地化されず特殊な言語体系を維持し、大陸文明を摂取しながら占領されず、自ら議会民主政治と近代化の歴史を作った稀有な国であり、有色人種の非欧米地域に多大な影響を与えた。失敗はしたが、自分の手で自分の国を再創造する必要があり、憲法改正が国家再建の第一歩である、二十一世紀の半ばに日本文化の黄金期が到来する』と結んでいる。対談後佐藤氏は急死してしまったが、この終章を特に若い人に心して読んでほしいと欣子夫人は願っている。

冒頭の国民投票法に戻る。三年後を目指して憲法改正の国民的論議が巻き起こる事を期待するが、先の大戦の開始・敗戦・米軍占領・独立・高度成長・経済大国・バブルと崩壊・再生という一連の流れを、アジア各国の独立・東西冷戦・社会主義の崩壊・BRICsの台頭・グローバル化など世界の流れの中で、もう一度各人が思い起こし、その上で故佐藤教授の言われたような日本文化の黄金期を目指して何をなすべきか考え、その上での国民的論議である事を私は念願する。まだまだ隠れた左翼の多い官界・学界・マスメディアに対する警戒が、安倍さんには無さ過ぎたし、ちょっと急ぎ過ぎたと思われるが、安倍さんの蒔いた種をしっかりと発芽させ育てなくてはならない。            (二〇〇七年十月六日)