強制された死か、個人の尊厳か             

 今日(2007.12.22)の朝刊によると、「沖縄ノート」訴訟結審と題し、先の大戦末期の沖縄戦で住民に集団自決を命じたとする、誤った本の記述で名誉を傷つけられたとして、当時の守備隊長らが大江健三郎氏と岩波書店に出版差し止めを求めた訴訟(2005.8.5提訴)は21日結審し、判決は来年3月28日だそうだ。一方文科省が今春、来年4月から使用される高校日本史教科書の検定で、沖縄戦での「集団自決」について、日本軍の命令や強制によるものとした記述に検定意見をつけ、具体的には「日本軍が配った手榴弾で集団自決と殺しあいをさせ」の表記が「日本軍が配った手榴弾で集団自決と殺しあいがおこった」などと修正させた件につき、自民党を除く各党はこの記述を元に戻すよう、福田首相所信表明演説に対する代表質問の中で求めた。
 いずれにしても事実はどうだったのかの改めての解明が期待されるが、本件の第一人者・曽野綾子さんの上記裁判原告側弁護士への掲題公開書簡(月刊誌WiLL)の中から何点かを紹介したい。
1) 曽野さんが集団自決について現地で取材を行ったのは1970頃、当時少しでも共産党独裁の中国を批判すれば直ちに書き直しを命じられたし、創価学会批判記事は輪転機を止めて削除されるなど、大新聞からは干されていたのだが、左傾した大新聞に抵抗して雑誌社系月刊誌が支援してくれたそうで、「ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決」は「諸君!」に連載されたそうだ。
2) 明らかに赤松元守備隊長と分かる人物について「人間としてそれを償うには、あまりにも巨きい罪の巨塊」と大江氏の「沖縄ノート」には表現されているが、大江氏が島には全く足を踏み入れていない事を、曽野さんは取材の中で知ったそうだ。その頃大江氏に「軍側でまとめた『陣中日誌』いうものが手に入ったのですが、お送りしましょうか」と言う電話をかけたところ、氏は、信じられないような激しさで「要りません!」と怒鳴ったそうだ。その一言で、大江氏は自分に不都合な資料は読まない人だと分かり、以後曽野さんは大江氏との一切の関係を絶ったという。
3) 取材の中の一こまだが、古波蔵惟好村長は「自決命令を持って来たのは当時の駐在巡査・安里喜順氏で、自分が直接聞いたのではない」とはっきり言ったので、安里氏を訪ねると「隊長さんに会った時はもう敵がぐるりと取り巻いておるでしょう。だから部落民をどうするか相談したんですよ。隊長さんの言われるには、『我々は今のところは、最後まで闘って死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ』という事だったのです」との事。何故マスコミに証言しないのかについて、安里氏は「誰も聞きに来ないのにどうして喋るのか」と答えたと言う。同じような例が他にもあるのだが、沖縄の記者達は直接体験者がいるのに全くタッチしなかったと曽野さんは書いている。
4) 「軍は民を守るもの」と言う言葉を当時沖縄でよく聞いたが、戦争中に暮らした記憶のある曽野さんはそうは解釈してなかった、民間人を保護せよという意図は初めから無いのが軍の理念だし、どの国に行っても軍が優先という仕組みをいやと言うほど見せ付けられた、軍事的組織そのものが恥だなどと言う風潮は他のどの国にも見られないものだと曽野さんは言う。
5) 私達は国家に拠って生きる他はない、その意味で日本の領土である沖縄を犯した当時の敵に対して、日本を守る為に闘おうとした全ての人々の死に深い尊敬を捧げる、強制された死と言う事は、死者達に自意識が無かった、と言う事と同義語だ、そんな失礼な考えが今になって許されるわけがない、と曽野さんは言う。そして本人尋問での大江氏の「元隊長の名前を明記していないし特定もしていない」は詭弁と切り捨て、「裁判の中では次第に責任範囲を拡げ、軍の命令にすり換えている」のはフェアでないと主張している。その通りであり、長年の「偽」が糾され、やっと正しい記述に近づいた教科書の内容が元に戻るなどと言う事は断じてあってはならない、と考える。