11 沖縄集団自決軍命令の有無

集団自決を強いたと記述され名誉を傷つけられたとして、名誉毀損による損害賠償・出版差止め・謝罪広告の掲載を求めて、集団自決から六十年後の平成十七年八月、大江健三郎岩波書店を訴えた「沖縄集団自決冤罪訴訟」に対し、今年三月二十八日大阪地裁は、名誉毀損の成立を認めず原告請求を棄却した。本件について関心を持って過去に短文を書いて来たので、これらを使いながらまとめをしておきたい。

平成十八年六月短文
沖縄戦集団自決の真相に迫った、曽野綾子氏の『ある神話の背景』は昭和四十八年に文芸春秋から出版された後PHPで文庫本化されたが、いずれも絶版となり入手が難しくなっていたという。この五月WAC文庫から『沖縄戦渡嘉敷島―集団自決の真実』という書名で復刻されたと知り、早速書店で手にしてみると「大江健三郎氏の『沖縄ノート』のウソ、捏造された「惨劇の核心」を明らかにする」などと帯にあり、これも最近あばかれる嘘の歴史の一例かと興味をそそられ、大江本と併せて通読した。
 日本軍の命令で住民が集団自決を強いられた、とする説が独り歩きするようになった発端は、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された『沖縄戦記―鉄の暴風』であり、それによると事件の梗概は「当時二十五歳の赤松大尉を隊長とする百三十名が駐屯していた。赤松隊長は地上作戦で最後の一兵まで闘うこととし、住民約三百人には手榴弾を渡して集団自決を命じた。天皇陛下バンザーイの叫びが手榴弾の炸裂でかき消され肉片がとび散り、谷間の流れが血で彩られていった。昭和二十年三月の米軍の上陸後、部隊は壕にひそみつづけたが、最後は投降勧告に応じて降伏した」であり、これが定説となっている。
 しかし曽野氏は、赤松大尉はもちろんその部下だった元兵士や同島で生き残った住民たちとの面談など独自取材の結果をまとめて、前述の『ある神話の背景』を出版し、この定説に初めて疑問を投げかけた。要点は以下の通り。
(1) 集団自決を糾弾する多くの資料・書籍を調べ、いずれもそれらは前述の『鉄の暴風』からの孫引きであることを突き止める。沖縄タイムスの当時の担当者や取材協力者にもあたり、同書は集団自決の直接の目撃者ではない二人の伝聞に基づいて書かれたことを知る。
(2) 更に曽野氏は、前述のような丹念な取材の結果、集団自決は起きたものの、赤松氏が自決命令を出したという証拠は得られなかったと、更に、当時の新聞記者たちは、殆ど赤松隊の元隊員や島の住民に会っておらず、『鉄の暴風』の記述を鵜呑みにして旧軍関係者を糾弾し続けたと明言する。
(3)『沖縄ノート』で大江氏は、「命令された」集団自殺を引き起こす結果を招いたことがはっきりしているとか、あまりにも巨きい罪の巨塊とか、と指弾しているのだが、曽野氏は「私はそこに 居合わせなかったし、私は神ではないのだから、そんな断定は出来ない」としている。
(4) 最後に復刻版解説者石川氏は、曽野氏の触れなかった座間味島での集団自決についても真相が明らかにされつつあるとして追加している。すなわち、その座間味自決から三十二年後の昭和五十二年三月二十六日、生き残った元女子青年団員は娘に「(玉砕を命じたとされてきた)梅沢隊長の自決命令はなかった」と告白したし、遺族が援護法に基づく年金を受け取れるように事実と違う証言をしたことも打ち明けたという。また、昭和六十二年三月、集団自決した助役の弟が梅沢氏に対し、「集団自決は兄の命令で行われた。私は遺族補償のためやむを得ず、隊長命令として(厚生省に)申請した」と証言したそうだ。
以上のように「旧軍の命令で住民が自決した」とする従来の定説は、ほぼ否定されたと言えるのだが、日本の中学高校の歴史教科書の大半には、依然として「……手榴弾をくばるなどして集団的自殺を強制した」「日本軍によって集団自決を強いられた人々……」などの記述が残っている。少なくとも歴史教科書の記述の誤りは正すべきであると私は考える。

 平成十九年十二月短文
 一年半前の短文で歴史教科書の記述を正すべきと主張したのだが、文科省は今春、来年四月から使用される高校日本史教科書の検定で、沖縄戦での集団自決について、日本軍の命令や強制によるものとした記述に検定意見をつけ、具体的には「日本軍が配った手榴弾で集団自決と殺しあいをさせ」の表記が「日本軍が配った手榴弾で集団自決と殺しあいがおこった」などと、曽野氏らの真相調査に基づき正しい方向へ修正させた。しかしながら、自民党を除く各党はこの記述を元に戻すよう、福田首相所信表明演説に対する代表質問の中で求めるなど看過し得ない動きもあり、予断を許さない状況にある。
 いずれにしても事実はどうだったのかの司法による解明が期待されるが、本件の第一人者・曽野綾子氏の月刊誌WiLL平成二十年一月号掲載「強制された死か、個人の尊厳か」の中から何点かを紹介したい。
(1) 曽野氏が集団自決について現地で取材を行ったのは一九七〇年頃、当時少しでも共産党独裁の中国を批判すれば直ちに書き直しを命じられたし、創価学会批判記事は輪転機を止めて削除されるなど、大新聞からは干されていたのだが、左傾した大新聞に抵抗して雑誌社系月刊誌が支援してくれたそうで、『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』は「諸君!」に連載されたそうだ。
(2) 明らかに赤松元守備隊長と分かる人物について「人間としてそれを償うには、あまりにも巨きい罪の巨塊」と大江氏の「沖縄ノート」には表現されているが、大江氏が島には全く足を踏み入れていない事を、曽野さんは取材の中で知ったそうだ。その頃大江氏に「軍側でまとめた『陣中日誌』というものが手に入ったのですが、お送りしましょうか」と言う電話をかけたところ、氏は、信じられないような激しさで「要りません!」と怒鳴ったそうだ。その一言で、大江氏は自分に不都合な資料は読まない人だと分かり、以後曽野氏は大江氏との一切の関係を絶ったという。
(3) 取材の中の一こまだが、古波蔵惟好村長は「自決命令を持って来たのは当時の駐在巡査・安里喜順氏で、自分が直接聞いたのではない」とはっきり言ったので、安里氏を訪ねると「隊長さんに会った時はもう敵がぐるりと取り巻いておるでしょう。だから部落民をどうするか相談したんですよ。隊長さんの言われるには、「我々は今のところは、最後まで闘って死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ」という事だったのです」との事。何故マスコミに証言しないのかについて、安里氏は「誰も聞きに来ないのにどうして喋るのか」と答えたと言う。同じような例が他にもあるのだが、沖縄の記者達は直接体験者がいるのに全くタッチしなかったと曽野氏は書いている。
(4) 私達は国家に拠って生きる他はない、その意味で日本の領土である沖縄を犯した当時の敵に対して、日本を守る為に闘おうとした全ての人々の死に深い尊敬を捧げる、強制された死と言う事は、死者達に自意識が無かった、と言う事と同義語だ、そんな失礼な考えが今になって許されるわけがない、と曽野氏は言う。そして本人尋問での大江氏の「元隊長の名前を明記していないし特定もしていない」は詭弁と切り捨て、「裁判の中では次第に責任範囲を拡げ、軍の命令にすり換えている」のはフェアでないと主張している。
その通りであり、長年の「偽」が糾され、やっと正しい記述に近づいた教科書の内容が元に戻るなどと言う事は断じてあってはならない、と考える。

 平成二十年四月短文
 さて以上のような経緯で「沖縄集団自決冤罪訴訟」については、単に個人の名誉の問題としてではなく、軍命令の有無は国の名誉に関わる問題であるとの視点で、私は関心を持ち続けて来た。残念ながらこの三月末の判決は冒頭に記したとおりで原告敗訴に終わったわけだが、各紙に記載の判決要旨から隊長の自決命令に関する箇所を抜き出すと、「・・・・集団自決については日本軍が深く関わったものと認められ、原告梅沢・赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であった事からすると、集団自決に両大尉が関与した事は十分に推認出来るけれども、自決命令の伝達経路等が判然としないため、本件各書籍に記載されたとおりの自決命令それ自体まで認定する事には躊躇を禁じ得ない」となっている。それにも拘らず敗訴とは腑に落ちないのだが、「躊躇を禁じ得ないものの、名誉毀損を言い渡すほどでもない」と言いたいのだろうと私は推測する。
 私の関心は教科書であり、「躊躇を禁じ得ない」ようなあいまいな事実を、いかにも真実であるかのように中学・高校生用の教科書に記載するのだけはやめてもらいたいものである。沖縄では逆に自決命令を教科書に明記せよ、との声が騒々しいようだが、曽野氏がいみじくも言うように「そんな失礼な事は言わないでもらいたい」と私も思う。