渡辺利夫氏の「新脱亜論」                     

掲題は文春新書の新刊であるが、拓殖大学学長渡辺氏は1939年生まれ、筑波大学教授・東京工業大学教授を経ての現職、主な著書に「成長のアジア 停滞のアジア」(吉野作造賞)・「西太平洋の時代」(アジア・太平洋賞大賞)・「開発経済学の時代」(大平正芳記念賞)があり、アジアに関する専門家だ。現在の極東アジアの地政学は日清・日露の両戦争が戦われたあの頃に極似している、あの頃福沢諭吉は卓抜な慧眼を持ったオピニオンリーダーとして「脱亜論」を展開した、今当時の歴史を反芻しつつ現下の外交に警鐘を鳴らす、と言うのが執筆の動機のようだ。私も同じ問題意識を持つ。
 主要な章は、先祖返りする極東アジア地政学陸奥宗光日清戦争、東アジア勢力確執の現実(果てしなきロシアの野望)、日露戦争日英同盟韓国併合への道程、などと続き、最後に「東アジア共同体」という錯誤、日米海洋国家同盟を守る、で終わる。各章にまとめがあり、それぞれ感銘を受けるのだが、最後の「おわりに」で著者は「近代日本の先人たちは極東アジアの国際環境をいかに観察し行動して、日本の独立自尊を守ったのか。この事を日本の若者にどうしても伝えておきたい」と叫んでおり、ここの要点を以下に転記することにする。
 『明治前期に於ける日本の活路は福沢諭吉の「脱亜論」に記された方向で展開された。福沢は、政争と内乱を繰り返して独立の気概なき朝鮮、朝鮮を臣下として服属させ事ある度に大軍を派遣してその近代化を阻止する清国を眺めて、朝鮮と清国はもはや見限り、自ら一人で欧米の近代化に倣って富国強兵に乗り出すべしとする激しい論陣を張った。真に慧眼だった。清国と朝鮮との君臣関係を断ち切らねば朝鮮の独立はありえず、朝鮮はいずれ清国、ついでロシアの支配の手に落ちる。そうなれば日本は深刻な危殆に瀕すると自覚して日清戦争に挑んだ。朝鮮が日本の支配下に置かれてもなお、これに隣接する満州への貪欲な支配欲の衝動を抑え切れないロシアが登場するや、日本は国運を賭して日露戦争に打って出て辛勝した。しかし、その後第一次大戦に参戦し、山東省のドイツ権益を継承し、対支二十一ヶ条要求を提起して米国に「日本横暴」との強い警戒心を与えてしまった日本は、満州事変・満州国建国を経て、更にあの広大な中国の全域に戦局を拡大してしまい、ワシントン体制下の列強から猜疑心と嫌悪感を向けられ、日英同盟の廃棄迄をも余儀なくされ、中枢権力を欠いて四分五裂の中国の奥深くに侵入してそこで日本軍は自滅してしまった。そして、ついに第二次大戦に於いて亡国の危機におとしめられたのだった。一体何が明治のあの輝かしき日本をこうまで凋落させてしまったのか、明治になお残る武士の魂、軍事力に対する絶大な信頼、実力者による人材登用の柔軟性、総じて明治期日本の合理的精神の中に、明治の興隆の原因を求め、それと対極のものへと変じて行った日本の退嬰と堕落が日本を亡国にいたらしめた、と見てよいのではないか。過去と現代、そして恐らく将来もそうであろう、不条理に満ちた国際権力世界を生き延びて行く為には、利害を共有する国を友邦として同盟関係を構築し、集団的自衛の構えを持たなければとても生存を全う出来ない。叶う事ならば同盟の相手は強力な軍事力と国際信義を重んじ、明治の戦略家佐藤鉄太郎も既に論証しているように、海洋覇権国家であって欲しい。人類学者梅棹忠夫は、ユーラシア大陸中心部と大陸周辺部国家群との対比が意味ある思索の軸であり、周辺国家群は如何に中央アジア的暴力から身を守るかを論じている。東アジア共同体を目指そうなどと言う話があるが、このような事を屈託なく志向する日本の知識人や政財界人は、佐藤や梅棹の歴史感覚の少しでも身につけてもらいたい』
 宮沢内閣の時、首相の私的懇談会で梅棹氏は「日本が大陸アジアと付き合ってろくな事はない、と言うのが私の今日の話の結論です」と話を切り出した事を渡辺氏は紹介しており、私も同感だ。隣の家となら付き合わなくても済むが、しかし中韓北となるとそうも行かない。厄介な連中だが福沢諭吉陸奥宗光小村寿太郎に負けないような叡智を持った人材に政治外交を頼みたい。