明治人柴五郎の生涯

 掲題は村上兵衛著「守城の人」(光文社1992、文庫本2002)の副題、文庫本では774頁にもなる大著だが、現代史の復習には恰好の名著であり読書の秋に相応しく一気に読了した。筋書きがほぼ推測出来るので、目次を適宜選んで記すと、会津武士の子・鳥羽伏見の戦い・子女殉難と籠城戦・会津落城・斗南の飢寒地獄・五郎上京・陸軍幼年学校合格・西南の役と柴兄弟・渡清福州に向かう・厳冬の満州・朝鮮縦断の難行・日清戦争勃発・講和と台湾征討・北清事変・日英同盟の顔・日露開戦・明治終焉・退役の日々、となっていて、1923(大正12)年63歳で陸軍大将の停年を迎えている。
 西軍が攻め上がって来て会津戦争となり若松城が落城するのは明治元年だが、当時五郎は十歳、母親の思いを受けて大叔母は五郎をしばらく預かった。その間に柴邸に残っていた祖母・母・嫂・姉・妹は悉く自刃して果てる、大叔父は一同を介錯し最後を見届けた後、家に火を放ち・・・・、などという凄まじい場面から始まり、明治3年敗残の旧会津藩家族達200人の下北半島への移住、恐山の裾野の大草原での悲惨な開拓生活の描写が続くのが第一部である。第四部が日清戦争であり、義和団の地鳴・北京籠城計画・放火と虐殺と・西太后列国に宣戦・日本将兵の奮戦・柴中佐の名望が語られるのだが、少し紹介すると以下のとおり。1900(明治33)年清国公使館付きを命ぜられたが着任間もなく義和団の乱が起こる。暴徒が各国大使館を取り囲みドイツ公使が殺害される。柴は西公使を支えて居留民保護に当たると共に、他国軍と協力し60日に及ぶ籠城戦を戦う。当時日本の他に11ヶ国が公使館を持っており日本を含む8ヶ国が多少の護衛兵を持ってはいたが、柴は各国籠城部隊の実質的大将であり、その功を称えて事変後五郎は英国からの武功勲章をはじめ各国から勲章を授与され、ロンドンタイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘しその任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記し、コロネル・シバの名は世界に知れ渡った。
 前述のように最後の節は「退役の日々」だが、昭和に入ると五郎の新知識のソースは次女春子の夫・西原一策に限られる。西原は上海派遣軍参謀として従軍したりしているが、足しげく義父を訪ね話し込んでいる。「シナは鉄砲だけでは片付かない。・・・・」という五郎の言葉があるが、長く親しんだ中国大陸の諸々を想起し、ある危険をこの戦さの中に感じ始めたのだろう、と著者は記している。
 1945(昭和20)年9月15日、大東亜戦争敗戦の日から一か月、五郎は日記に遺言をしたため、その日深更、家族が寝静まったのを見すまし、会津藩松平家から頂いた脇差を持ってそっと裏に出、切腹を図った、・・・・しかし失敗した。数え87歳の老人にとって腹を切って自死するのは、そう容易い事でない。彼は中止を決断し、娘のみつを起こし応急の止血を施す。・・・・・同年12月13日朝、起き出して来ない父の居室にみつが入って行くと、五郎は既に望んでいた彼岸にひっそり旅立っていた。ここでこの長編が終わっている。
 久しぶりに読んだノンフィクションに感銘を覚えていたら、8月15日の産経新聞に「武士道に徹した柴五郎」という見出しで、シリーズ「君に伝えたい、日本」の第一回に櫻井よしこ氏が書いているのに気づいた。私とは別の参考書を基に櫻井氏はこのエツセーを書いているようだが、義和団事件について氏は「この時柴五郎の統率する日本軍は、活目の働きで暴徒集団を退け、北京籠城を解いた。その後各国軍隊の軍政区域が定められたのだが、今度は逆に、中国人への迫害と略奪が発生し続けた。ただ一つの例外は柴指揮下にあった日本軍政区のみ。軍紀厳正で略奪も行われず、他の区域から日本区域に移住して来る中国人が多かった。」と記している。
 この歳になって初めて柴大将の功績を読んだとは恥ずかしいが、知人友人に急ぎ伝えたいものである。