村山談話の虚構と欺瞞

 昨年末からメディアで取り上げられている田母神前航空幕僚長の更迭だが、その最大の理由は、彼の論文が、政府見解となっている「村山談話」に反すると言う事らしく、私なりに復習して見た。
 宮沢喜一内閣に代わって非自民の細川内閣・羽田内閣が続いた後、自社さ政権が出来て、1994.6.30に社会党の村山富一氏が首相になった。翌年は戦後50年、改めて国際社会に謝罪しなくてはと「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」が考えられたそうだ。始め社会党が出して来た決議案には自民党からかなりの反発が出、容易にはまとまらず、衆議院での可決の見込は無かったようだ。本日は採決しないという通知が夕刻に回った為、金曜日でもあり、多くの代議士は選挙区へ帰りかけたという。ところが、急遽土井議長は議会再開のベルを鳴らし、結局、出席賛成者230人、出席反対者14人、欠席者249人以上で、騙し討ちのように可決された。与党からも欠席者が多数出た為、参議院での決議提出は見送られたのだった。この欺瞞的決議は約260文字なのだが、問題個所は『……我が国が過去に行った植民地支配・侵略的行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し深い反省の念を表明する。……』であり、当時の世界情勢を公平客観的に見る事なく、定義の曖昧な用語を用いた自虐的歴史観に基づくものであった。
 この決議をベースに、どうか何も言わずに了解して欲しいとの根回しのもと、唐突に閣議に出して了解を取り付けた村山内閣総理大臣談話が1995.8.15に発表された。全文約1400字、後半に問題の個所『……我が国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して、多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無かからしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします』がある。この談話の内閣記者会での発表に際し、「どの国策をどういう風に誤ったのか」と聞かれて一つの具体例も言う事が出来なかったそうだ。サンフランシスコ平和条約の締結で賠償金を払いその時点で歴史問題は消滅すると言うのが、国際法上の常識なのだが、中国・韓国にはこの常識はないようだ。江沢民は「日本に対しては歴史問題を永久に言い続けなければならない」と言っているが、こういう相手にとっては、村山談話は「飛んで火に入る夏の虫」であり、しかもどう言うわけか、その後の歴代内閣総理・橋本・小渕・森・小泉・安倍・福田・麻生各氏がいずれも、マスコミの問いに「村山談話を踏襲する」と言ってしまっている。誠に残念至極だ。
 1951.9.8に署名され、1952.4.28に発効した全27条から成るサンフランシスコ条約は、戦争責任について何も言わない条約だったし、吉田首相も受諾演説で一言も謝ってなどいない。敢えてそれに近い箇所を探せば『我々はこの人類の大災厄に於いて古い日本が演じた役割を、悲痛な気持ちをもって回顧するものであります。……我が国も先の大戦によって最も大きな破壊と破滅を受けたものの一つであります。この苦難によってすべての野望、あらゆる征服の欲から洗い清められて、我が国民は極東並びに全世界に於ける隣邦諸国と平和の内に住み、その社会組織を作り直して、すべての者の為により良い生活を作らんとする希望に燃えております』であろうか、と阪大教授坂元一哉氏は述べ、左右からのそれぞれ異なる反対論を抑えて、戦争責任を盛り込んでいない条約を結んだ吉田首相の功績は、評価しても評価し過ぎる事はないと称えている。このような凛とした先人の堂々たる態度を思うにつけ、昨今の我が国首相の歴史観の無さ・国家観の無さには目を覆うばかりである。この村山談話の検証と破棄が次期政権の最優先課題であると私は考える。